彗星の住人


彗星の住人(島田雅彦/新潮社)

気が遠くなるような、巨大スケールの物語だった。
話しの語り部としては、21世紀の現代に立った視点から話しを始めているにも関わらず、そこから語られる内容は、今からはるかに時代を遡った、四世代前の長崎の女性を発端として延々と続いてゆく。
普通であれば、せいぜい主人公の家族あたりまでが、登場人物としての範囲になるところが、100年以上にもわたる血のつながりによって、一つの話しの中で関連づけられていくというのは、かなり壮大な試みだ。
この話しのスケールの巨大さは、事実して存在した19世紀後半以降の日本史や日本政治と密接に関わりながら、或る一つの家系に繰り返し現れる「生き様」とでもいうべきものが語られているところにある。
この本を読むと、どんな個人も、歴史の強い力や過去の因縁とでも呼ぶものから逃れられはせずに、無意識的にそれに操られながら、今を生きているのだという感覚にとらわれる。これは、周到に組み立てられた小説にしてはじめて作り出すことが出来る、不思議な世界なのだと思う。
【名言】
あなたはこれからの女。私はすでに用済みの女。もう何も見る必要はない。あなたはなまじ目が見えるから、真っ先に形のいいものや色気のあるものを見て、騙されてしまうのよ。私も若い頃はそうだった。何度も騙されて、傷ついて、愛するものを失って、そして光も失って、ああ、そういうことだったのかって悟ったのよ。(p.35)
この人は自分の喜怒哀楽を自在に取り換えられる人だ、と君は思う。君は悲しい時には、ただ悲しむことしかできないのに、彼女は怒りを感謝に変え、悲しみをユーモアに翻訳し、退屈を楽しみに加工できるのだ。アンジュ伯母さんに向けられた君の眼差しは自然に親愛の情を帯びた。(p.39)
三十六、七年前、この町でも一人の少年が一人の少女に会った。きょうも何処かの街角で、学校で、川べりで、公園で、カフェで、ボーイ・ミーツ・ガールが繰り返されている。もし、ボーイ・ミーツ・ガールが罪になるのだとしたら、何と罪作りな惑星に我々は住んでいることか。(p.47)
カヲルは自らの歌声で、常盤家の人々に、この家の子となることを認めさせたのだった。歌は、理屈よりも強い説得の道具になることを、カヲルはこの時、おぼろげに悟った。(p.69)
もう何もすることがなくなってしまった。すでに彼は人生絶頂の日を通り過ぎてしまった。よるべない心を通わせる場所は、見つけたと思った直後には消えていた。彼がそこに留まっていられたのは、まばたき数回の刹那に過ぎなかった。何というあっけなさだったろう。妙子さんが与えてくれた陶酔は、待ちぼうけの時間の中に埋もれてしまいそうだった。(p.392)