私家版・ユダヤ文化論(内田樹/文藝春秋)
ユダヤ人というのは、つくづく不思議な民族だと思う。
何故ユダヤ人は繰り返し迫害されてきたのか、という問いに対して、一番政治学的にもっともらしい答えは、「社会的弱者を用意することで、下層市民の不満を緩和するため」、という答えだ。自分も、それが妥当な理由なのだろうとこれまで思っていたのだけれど、ユダヤ人というのは、それだけでは説明がつかない、更に考察が必要なシチュエーションにあるらしい。
ユダヤ人は、たびたび迫害の対象にありながら、経済・文化の要の位置にはかならずといっていいほどユダヤ人の存在があり、きわめて多くのノーベル賞学者を輩出している。その割合の多さは、他民族と比べて突出して多く、もはや偶然では片付けられない数字になっている。
筆者は、「これまでに明確な回答といえるユダヤ人論はなかったし、自分自身も明確な回答を述べられるつもりはない」としながらも、丹念にユダヤ人の特性について一つ一つ検証を進めていく。そこから導き出される結論はとてもシンプルで、そこに至るロジックも筋が通っていて、とても腑に落ちる総括の仕方だった。(ただ、「私家版」という修飾をタイトルにわざわざ加えたのは無用のことで、そんな看板はつけないほうがよかったと思う。)
読みながら思ったのは、諸行無常の思想を、常に身をもってシビアに実感しているのがユダヤ人という民族なのだということだ。
普通の市民であれば、ごく自然にどこかの国民として生活をし、無意識的にアイデンティティーを得ているところを、そもそものアイデンティティーを獲得するところから自分自身で始めなければならない。
このことの最も大きなアドバンテージは、考えるという行為をとことんまで追求するのに適した環境を生来的に持っているということだろう。
ユダヤ人ならざる身では、本当のところは理解出来ないのかも知れないけれども、その独特な成り立ちについてかなり詳しく説明されている本だった。
【名言】
その問いは「人間が底知れず愚鈍で邪悪になることがある」のはどういう場合か、という問いにも書き換えることができる。経験的に言って、人間はまったく無動機的に愚鈍になったり邪悪になったりすることはない。私たちはそうあることを熟慮の末に選んでいるのである。(p.7)
「ユダヤ人」ということばについて私たちがまず踏まえておくべきことは、それを中立的・指示的な意味で用いることがほとんど不可能だということである。私たちは「ユダヤ人」という社会的集団名称を辞書的意味に限定して用いることができない。私たちはつねに何らかの価値判断込みでしかこの語を用いることができない。(p.20)
人々の怨嗟や憎悪を一身に集めてしまう被差別集団はあらゆる社会に存在する。ユダヤ人もまたそのような集団の一つである。ユダヤ人が存在しない集団では、別の任意の小集団が(例えば黒人が、例えばツチ族が、例えばセルビア人が・・)「供犠」対象に選ばれる。その集団が社会の悪のすべてを集約的に表現しており、その集団さえ根絶すれば社会は再び原初の清浄と活力を回復する、そういう種類の「物語」は世界中どこにでもあったし、今もある。それがある社会の構造的な矛盾を隠蔽して、国民統合を成就することのできる「ソリューション」である限り、シニックな政治家たちはこれからも政治的選択肢の一つとして人種差別を繰り返し政治的に活用するだろう、というのが科学的なタイプの供犠論である。(p.165)
さしあたりこのようなリストから導き出せるのは、かなりシンプルな言明である。それは「ユダヤ人たちは多くの領域でイノベーションを担ってきた」ということである。私たちが問題にしているのは、あくまで「程度の差」なのであるが、「程度の差」と言って済ませるには、ユダヤ人がかかわってきた文化的領域はあまりに広大であり、彼らがなしとげてきたイノベーションはあまりに多種多様なのである。(p.177)
ユダヤ人たちが民族的な規模で開発することに成功したのは、「自分が現在用いている判断枠組みそのものを懐疑する力と、『私はついに私でしかない』という自己緊縛性を不快に感じる感受性」である。(p.178)
個別的・歴史的なエスニシティやナショナリティを脱ぎ捨てて、「端的に人間的であることを目指すのは、諸国民のうちただユダヤ人だけである。だから、ユダヤ人は「端的に人間的であろうとする」まさにそのみぶりによって、彼だけがユダヤ人であることを満天下に明らかにしてしまうのである。(p.197)
私たちがユダヤ人について語る言葉から学ぶのは、語り手がどこで絶句し、どこで理路が破綻し、どこで彼がユダヤ人についてそれ以上語るのを断念するか、ほとんどそれだけなのである。(p.233)