君主論(マキアヴェリ/講談社)
この本で語られている内容は、かなり現実的で冷徹だけれども、それはマキアヴェリの人柄がそうであるというわけではなく、専制政治というものの性質によるもので、君主制を成立させる方策を語るためには、そうならざるをえないところがあったのだと思う。
マキアヴェリ自身も、君主制の擁護者というわけではなく、この「君主論」の中では、君主制による理想の統治について徹底的に追求をしてみた、という思考実験的な雰囲気がある。
読んでいると、そうとう悪どいやり方を勧めているところもあるのでびっくりするけれど、君主という特殊な存在のあり方を考えれば、「温厚ではあっても領民を守る力のない君主」よりは、「残忍ではあっても強大な意思と力を持った君主」のほうが、多くの人を幸せにするのだろうと思った。
マキアヴェリの主張には迷いがなく、はっきりとした確信を持って、自分の信ずる、君主のあるべき姿を主張している。それは、群雄割拠のイタリアにあって、実際に多くの政治家の栄枯盛衰を間近に見ていたからこそ培われたノウハウなのだと思う。
当時の時代に、君主として統治をしなければいけない立場の人にとっては、この書は喉から手が出るほど欲しかった知識であったに違いない。
現代にあっても、この政治学は適用出来るかといえば、この「君主論」の主張をあてはめられるケースはほとんどないだろうと思った。非常に専制的な中小企業の社長の場合には、似た状況があるかもしれないけれど、それにしても、「君主論」をモデルにするのは時代錯誤な気がする。
政治訓の書というよりは、15世紀イタリアのダイナミックな空気がよくわかる歴史書という読み方のほうがふさわしい本と思う。
【名言】
それにつけても注意すべきは、人間は寵愛されるか、抹殺されるか、そのどちらかでなければならないということである。何故ならば、人間は些細な危害に対しては復讐するが、大きなそれに対しては復讐できないからである。それゆえ、人に危害を加える場合には、復讐を恐れなくて済むような仕方でしなければならない。(p.39)
ある領土を得る場合、占領者は行う必要のあるすべての加害行為を検討し、それを毎日繰り返す必要がないよう一気に断行すべきであること、そしてそれを繰り返さないことによって人々を安心させ、人々に恩恵を施して人心を得ることができるようにすべきであるということである。(p.86)
君主は戦争と軍事組織、軍事訓練以外に目的を持ったり、これら以外の事柄に考慮を払ったり、なにか他の事柄を自らの技能としてはならない。それというのもこれのみが支配する人間に期待される唯一の技能であるからである。(p.121)
君主は仮に好意を得ることがないとしても、憎悪を避けるような形で恐れられなければならない。恐れられることと憎まれないことは、恐れられることと愛されることよりもより容易に両立しうる。このことは君主が市民や臣民の財産と彼らの婦女子に手を出さないならば、必ずや実現されるであろう。仮に誰かの血を流すことが必要な場合には、適切な正当化と明確な理由の下に行われなければならない。(p.137)
運命は変転する。人間が自らの行動様式に固執するならば運命と行動様式とが合致する場合成功し、合致しない場合失敗する。私の判断によれば慎重であるよりも果敢である方が好ましいようである。なぜならば運命は女神であり、それを支配しておこうとするならば打ちのめしたり突いたりする必要があるからである。運命の女神は冷静に事を運ぶ人よりも果敢な人によく従うようである。(p.194)