掏摸(スリ)


掏摸(中村文則/河出書房新社)

主人公の設定として、スリというのはあまり見たことがない。
小説や映画の中で人が殺されるというのは珍しくないけれど、フィクションの中で語られる数ほど、人を殺す職業に従事する人口が、現実に多いとは思えない。
それにもかかわらず、なんで殺し屋よりもスリの主人公のほうが少ないかと考えれば、あまり派手さがないために、大掛かりなサスペンスやアクションを作るには不向きとされているからではないかと思う。
しかし、この小説を読んで、スリというのはなんとストイックで思想的な行為であることかと思った。そう思わせるのは、文章の表現力があってのことであるけれど、罪ということや運命についての問題提起をしていながら、同時にエンターテイメントとしての面白さも両立させているという、見事な構成だった。
この小説の中には、実際にスリをする場面が繰り返しあらわれるけれど、その描写がものすごくリアルなことに驚いた。実際にその場に立ちあっているような臨場感があって、何度その場面が登場しても、飽きるということがない。
かなりシリアスな設定でありながらも、暗さがないというところも良かった。抗いようがないほどの巨大な力に翻弄されることがあっても、自分自身や、周りの人間への希望を失わないという、「社会の法に反しながら、自分の内なる善性に従う」義賊的なヒーロー像がとても印象深く、余韻として残った。
【名言】
「自分が人混みに消えて通り抜ける時、特殊な感じがある。・・時間には、濃淡があるだろ?ギャンブルとか、まあ投資詐欺が成立する緊張もそうだよ。・・法を超える瞬間、ヤクザの女とか、やったらやばい女と寝る瞬間とかさ・・、意識が活性化されて、染み込んでくるし、たまらなくなる。そういう濃厚な時間は、その人間に再現を求めるんだ。もう一つの人格を持ったみたいに。またあの感覚を、またあの感覚をって、自分に要求してくる・・。」(p.22)
「・・子供の頃から、俺は花火大会が好きだった。貧乏人にただで見せてくれる、最高の娯楽だよ。・・全ての人間に等しく、あの火花は空に上がるんだ。
実際、美しいよ。・・あれは人生の、この世界の美の一つだ。でも俺達は、その美を利用して、自分達の目的を果たすだろ?皆が美に魅入ってる隙に、俺達は美を見ることなく、そのポケットを見る。それが、何ていうか」
あの時石川はそう言ったが、僕にとって、彼の動きは人を魅了するものとして映った。(p.24)
「そもそも馬鹿だから、犯罪をする。仕方ないことだ。・・でも、それとは反対に、本当に優秀な人間も、法など気にしない。むしろ法がなければ犯罪などつまらない。わかるか?」(p.40)
「覚えておくといい。・・犯罪にも、格差がある。無計画の強盗など、馬鹿の極みだ。・・取り分も少なく、リスクもでかい。強盗の最中、全ての行為を意識し、楽しむことだ。他の人間が人生の中で決して味わえない分野を、お前達は味わうわけだから」(p.47)
「新美も、お前達も、相当な馬鹿だよ。そんな人生を選んだくせに、何かと繋がろうとする。馬鹿の極みだ。お前達は本当は、フリーでいればよかった。」(p.110)
「お前がもし今回の仕事に失敗したとしても、その失敗から来る感情を味わえ。死の恐怖を意識的に味わえ。それができた時、お前は、お前を超える。この世界を、異なる視線で眺めることができる。俺は人間を無残に殺したすぐ後に、昇ってくる朝日を美しいと思い、その辺の子供の笑顔を見て、何て可愛いんだと思える。それが孤児なら援助するだろうし、突然殺すこともあるだろう。可哀そうにと思いながら!神、運命にもし人格と感情があるのだとしたら、これは神や運命が感じるものに似てると思わんか?善人や子供が理不尽に死んでいくこの世界で!」(p.119)
「完璧にやったのに、こうなる。意味がわからんだろ」(p.170)
「・・人生は不可解だ。いいか、よく聞け。そもそも、俺は一体、何だったのか。お前は、運命を信じるか?お前の運命は、俺が握っていたのか、それとも、俺に握られることが、お前の運命だったのか。だが、そもそも、それは同じことだと思わんか?」(p.171)