その男ゾルバ(ニコス・カザンザキス/恒文社)
読み終わるまでにものすごく時間がかかった。
1967年の本なので、二段組みで、活字が古くて読みにくいということもあったけれど、今から100年近く前のクレタ島が舞台になっていて、その価値観も、文化的背景も今とは随分違うために、話しの内容が頭の中にスッと入ってこないというのが大きかった。
文明的・理知的な語り手である「私」が、感情と本能のおもむくままに行動する「ゾルバ」に影響を受けて、だんだんと自分の殻を破っていくというような物語で、その点は、二人の人物の対比がとても明確になっていて、面白い。
身近な例でいえば、寅次郎とヒロシのような組み合わせの二人で、それぞれ違う生き方をしていて、時には対立しながらも、しかし、心の中ではお互い尊敬し合っている。
この二人によって、「体験」と「知識」、「理論」と「感情」、という二項対立をさせながら、「人生とは何か」というようなことを問う、かなり大きなテーマの話しになっている。
話しについていけなかったのは、登場人物たちの道徳観がだいぶ、今とは基準が違っているようで、「そんな展開ありえるの!?」ということが色々とあったところだった。結構、みんな適当なところも多いし、あっけなく殺したり、盗んだり、奪ったり、目茶苦茶なハプニングも起こる。
西洋とはいえ、キリスト教的な価値観ではなく、もっと原始的な古代ギリシャ風の価値観が優勢になっていて、多神教としてのゆるさや、快楽主義が浸透していた土地ということなのだと思う。
【名言】
「おまえさんになにがいえるかねえ?」彼は、私をおしはかるようにしながら続けた。「みるところじゃ、おまえさんは一度だって、飢えたことも、殺したことも、盗んだり、姦通したりしたこともねえようだ。それで世の中のことがどうして分かるんですか?罪のねえ頭を持ってなさるんだ。身体だってほんまに太陽にふれたこともねえ」明らかに軽蔑をこめてつぶやいた。
私は自分の繊細な手、青白い顔、泥や血にまみれたことのない私の人生を、恥ずかしく思ったのだった。(p.50)
「おまえは何も信じないというのだね?」私はいらだって怒鳴った。
「その通りで。わしは何にも信じちゃいません。何度いわせりゃ気が済むんですかい?わしは何にも、誰も信じちゃいませんぜ。わしの身、ゾルバの他にゃな。そりゃ、ゾルバが他の人間より上等だからというんじゃねえ。そうじゃ決してねえ!ゾルバも他の奴らと同じように畜生でさあ!それでもわしゃ、ゾルバを信じとる、そりゃ、こいつだけは私の手に負えまさあ。こいつだきゃ、わしも知っとりまさあ。他の奴ら、皆、幽霊だ。わしゃこの目でみらあ。この耳で聞かあ。この腹で消化すらあ。他の奴ら皆、幽霊だ。わしが死んでしまや、皆いなくなる。ゾルバ的な世界は沈んでしまうってわけでさあ!」
「何という利己主義だ!」私は皮肉な調子でいった。
「仕方がねえ、親方!こういう具合なんでさあ。わしが豆を喰う。豆の話しをする。わしはゾルバでさあ。それでわしはゾルバのように話す」
私は何もいわなかった。ゾルバの言葉が鞭のように私を打った。私は彼が非常に丈夫で、あれほど人間を軽蔑し、しかも同時に彼らとともに生き、働くことを望んでいるので、ゾルバに敬意を表していた。私は隠者になるか、人間に我慢出来るように、にせものの羽根で彼らを飾るか、しなければならなかったのだった。(p.86)
この男は学校教育など受けたことはなかった。それで、彼の頭は変にゆがんでいないのだ。精神は常に開き、心はその原始的な大胆さを少しも失うことなくますます大きく成長してきたのだ。私たちが複雑で解決出来ないでいるあらゆる問題を、ちょうどアレキサンダー大王がゴルディウスの結び目を剣で切ったように、ゾルバはみごとに解き放つのである。彼の両脚は全体重の重みで大地にしっかりと植えつけられているので、自分の目標を失うということはなかった。アフリカの土人は蛇が体全体で大地に接触し、したがって大地のあらゆる秘密を知っているに違いないというので、蛇を崇拝しているということである。蛇は大地の秘密をその腹で、その尾で、その頭で熟知している。常に母なる大地と接し、交わっている。同じことがゾルバについてもいえよう。私たち、教育をうけたものは、空を飛ぶ頭の空ろな鳥に過ぎないのであろう。(p.96)
「おまえさん、面倒はいやだというのね!」ゾルバは、呆然として叫んだ。「じゃたずねますが、一体何が欲しいのですかい?」
私は答えなかった。
「人生は面倒でさあ」ゾルバは続けた。「死は面倒じゃねえ。生きるって、どういう意味か分かってますか?バンドをはずして、面倒を求めることですぜ!」
私は、それでも何も言わなかった。私にはゾルバが正しいことはよく分かっていた。よく分かっていたが、敢えてそんなことは出来なかった。私の人生はまちがった道を歩んできたのだ。人びとの交渉も単なる独白にすぎなくなっていた。私はひどく堕落してしまっているので、もし私が女と恋に陥ることを恋について書いた本を読むことのどちらかを選ばなければならないとすれば、私は本の方を選ぶことにするだろう。(p.140)
彼はやっと選んで、悲痛な調べを弾き始めた。時折、彼は横目で私をみた。私には彼が言葉でとてもいうことが出来なければ、それをサンドゥリでいってるのだ、ということは分かっていた。それは私が人生をいたずらに空費しているのだということ、後家も私も太陽のもとで、ただ一瞬の間だけ生き、永遠に死んでしまう二匹の昆虫にすぎないこと。もう二度とかえらないのだ!もう二度とかえらないのだ!(p.141)
後家は立ち止まって、腕をのばして、門の戸をおしあけた。その時、私はちょうど女の傍を通り過ぎた。女はあたりを見まわし、まゆをあげると、私をじっと見た。
女は門の扉をあけたままにして、オレンジの木の向こうに腰をふりながら消えていった。
あの門から入り、しんばりを下ろし、女のあとを追いかけて、腰を抱き、一言もいわず、彼女のひとり寝のベッドに女をひきずっていく、これが男らしいということなのだろう!私の祖父ならはそうしたことだろう。そして、私は自分の孫もそうしてくれればいいと思う!しかし、私はそこに柱みたいにつったって、ことをあれこれ考慮し、思案しているのである・・
「別の人生で」と私は苦笑しながら、つぶやいた。「他の人生で、これよりましな振舞いが出来るだろう!」(p.164)
人の人生は、急な坂の上り下りした道路みてえなもんでさあ。まともな連中はみなブレーキを使いまさあ。ところで、多分ここが、わしがどんな作りの男かの見せどころってわけで、親方。わしはもうずっと前に、わしのブレーキは捨ててしまったんでさあ。昼も夜もわしは好きなことやって、全速力で走りまさあ。もし、わしが停まって、それでこなごなにつぶされでもすりゃ、それだけ悪いってわけでさあ。わしが何をなくするというんで?何もありゃしねえ。もし、わしがゆっくりしてからって、結局いきつくところは同じじゃねえですか?もちろんそういうことになりまさあ!だから、目茶苦茶にとばしていきましょうぜ!人は誰でも馬鹿なところがありまさあ。ところで最大の大馬鹿という奴は、わしの考えじゃ、馬鹿なところが一つもねえということでさあ。(p.192)
私は返事をしなかった。私はこの男が羨ましかった。彼は血の通った生身で生きてきたのだ。戦い、殺し合い、女にふれる、これらをみな私はペンとインキだけで知ろうとしたではないか。このような問題をすべて私は孤独の中に椅子にへばりついて、一つ一つ解決しようとしたのだ。ところがこの男は山の新鮮な空気の中で刀で見事に解決したではないか。
どこにももっていきようのない気持ちで私は目を閉じた。(p.282)
私はその場を去ろうとした。しかしゾルバの言葉が急に私の心にわいてきた。私は精一杯の力を出した。「海、女、ぶどう酒・・」
「私だよ」と答えた。「私だ。入れてくれ」
私がそう言い終わるか終わらないうちに、恐怖がふたたび私を捕えた。私はその場を逃げ去ろうとしていた。それでも私は何とか思いとどまったのだ。恥ずかしさでいっぱいだったが・・。(p.292)
私は彼を見つめながら、私たちのこの人生というものは本当に不可解なものであると思った。風に吹かれる木の葉のように人びとは出会い、また離れ離れになるのだ。愛する人の顔や、身体や、その身振りなどの面影を、何とか記憶しておこうとするが、それは空しい努力である。数年たってしまうとその人の目が青かったか、黒かったかということすら憶えていないのだ。(p.362)
おまえさんはいいお人だ。何にも足りねえもなあねえ。まったくいまいましいぐれえ、足りねえもなあねえ!たった一つだけ例外がありますぜ!そりゃ、愚かさでさあ!そいつがねえなら、親方、それじゃ・・」
ゾルバは彼の大きな頭を振ると、また黙ってしまった。
私はもう少しで泣き出すところだった。ゾルバのいったことはみなもっともなことだった。私も子供の頃は、気違いじみた衝動や、超人的な願望をいっぱい持っていた。私はこの世界に満足していなかったのだ。ところが、だんだん時が過ぎるに従って、私は穏やかになっていった。私は限界というものをもうけるようになった。可能なものと不可能なものを分け、人間と神とを分けるようになったのだ。私は、飛んで逃げないように自分の凧をしっかりとつかんできたのだ。(p.364)