世に棲む日日 2巻


世に棲む日日 2巻(司馬遼太郎/文芸春秋)

いよいよ、この巻で、吉田松陰と高杉晋作が出会う。
やはり、人と人とが運命的に出会う場面というのは面白い。松下村塾が開かれていた期間自体が非常に短いし、晋作も松陰も江戸にいる時期があったりで、直接関わっている時間はとてもわずかであると思うのだけれど、それにもかかわらず、ここまでの影響をお互いに与え合うぐらいの人物が出会うというのは、運命の配剤を思わせる。
読んでいて思うのは、革命期においても、人それぞれに役割というものがあって、その瞬間には非業の死に見えても、長いスパンで見れば大きな意味を持っていることが多く、決して無駄死ににはなっていないということだ。
この動乱の時代では、どの意見が正しいかということも時流によるし、生き死にでさえも、時流のタイミングという、個人の意思とは別のものによって左右される。
長州藩の長井雅楽が唱えた、「単純な攘夷ではなく、開国貿易によって国力を蓄えた上で、侵略を防ぐ」という案は、優れた策であって、坂本竜馬の考えともほとんど一致していたにもかかわらず、それを公にするタイミングが早すぎたために、実際には効果を上げられなかっただけでなく、命を落とすことにもなった。
この作品では、長州藩からの視点が中心となっているので、久坂玄瑞や、桂小五郎など、それぞれに非常に個性豊かな長州藩士がたくさん登場する。そこで重要になるのはもはや、能力の長短というよりも、性格や気質に合った「時と場」を得るかどうかである、というカオスなところがたまらなく面白い。
【名言】
この異常に強烈な民族的自尊心をもりあげたかれの理論は、やがてその後の志士たちの思想に重大な影響をあたえてゆくのだが、この松陰理論ができあがる発酵のたねに、松陰個人としての自尊心のつよさがあるであろう。
かれの性格について、仲間たちがみな驚嘆するところは、かれがつねに赤裸々に自分についてすこしの誇張もせず、しかも非常な謙遜家であるところであったが、しかし一個人の性格のなかにも人間は矛盾にみちている。謙遜家であると同比重でかれは強烈な自尊心のもちぬしであった。
この自尊心のつよさが、この若者の身辺をつねに清潔にしていたし、この若者の姿勢と行動を、削ぎ立った竹のようにするどくさせていた。そういう個人としての自尊心のつよさが、かれの民族的自尊心を昂揚させ、その独自の攘夷論をつくりあげるにいたった。(p.6)
「金子君、きょうの読書こそ、真の学問である」
と、ひどくあかるい声でいった。
「君は、漢の夏候勝と黄覇の故事を知っているか」
と、松陰はいう。夏候勝は漢の武帝につかえた学者であったが、あるとき罪におとされて獄に下った。黄覇もその獄の仲間であった。黄覇は獄中で学者の夏候勝にたのみ、自分はいままで無学ですごしてきたが、この機会に学問をしたい、ぜひさずけてほしい、という。夏候勝はおどろき、「どうせ刑死する身に学問は要らぬではないか」というと、黄覇は、「それはちがうでしょう、孔夫子のお言葉に朝に道を聞いて夕に死すとも可なり、ということがあります」といった。
「それとおなじだ。われわれは遠からず死罪になる。いまの読書こそ、功利を排した真の学問である。学問とはこういう時期の透明な気持から発するものでなければならないのだ」(p.43)
松陰はすでに生を捨ててしまって、禅でいう闊然たる世界に突きぬけてしまっている。見ることも語ることも、子供のようなういういしさになっている。松陰は、禅についていままでさほどの感心を示したことがなかったが、この時期の心境は、禅でいう悟達して目をひらけば空気がきらきらと光るようで、つい踊りたくなるほどのよろこびがある、という、そのような境地に入っていたのかもしれない。(p.44)
松陰は、どうも快活すぎる。
これは天性のもので、かれの思想でも主義でもなく、それがうまれつきだけにこの若者を自暴自棄にすることはいかなる悪魔でも不可能かもしれない。かれはどういう環境におちこんでしまっても、早速そこを自分のもっとも棲みやすい環境にしてしまう点、こういう棲みかたを才能であるとすれば、この人物は稀有の天才であったといえる。(p.77)
松陰はうなずき、顔を伏せて高杉の文集を読んだ。
やがて顔をあげ、最初にいったことばは、高杉が終生わすれられぬところであった。
「久坂君のほうが、すぐれています」
と、いうのである。
高杉は、露骨に不服従の色をうかべた。
(おもったとおりだ)
と、松陰はおもった。
人を見る目が異常にすぐれている松陰は、この若者が、裏へまわってここへ入ってきた最初から、尋常でない男がやってきたという感じがした。ふてぶてしいというわけではないが、渾身にもっている異常なものを、ところどころ破れてはいても行儀作法というお仕着せ衣装で包んでいる。それも、やっと包んでいる。
「どこが、劣っています」
と、高杉もいいかげんな言い方をゆるさず、劣っているところを指摘してくれ、といった。
松陰は、いよいよおもしろいと思った。論理は松陰吉田寅太郎のひとつであり、大いに好むところであり、高杉から質問されずともこれは大いに言うつもりであった。
松陰は、高杉の文章を分析し、松陰独特の平易な表現でそれをくわしく説明すると、高杉は自分の欠点をいわれているくせに、妙なことに聞くほどに昂奮をおぼえた。
帰路も、この昂奮がつづいた。
(あれは神人かもしれん)
と、それほど大げさな気持ちで松陰をおもったのは、高杉がはじめて自分とは何者かということを知った衝動によるものであろう。自分がどういう資質、性格、あるいは可能性をもった人間であるかという自分の像は、自分自身ではふつう、ついにわからない。かといって他人にきいてもわかるはずのないことであったが、高杉は、自分像というものをほとんど芸術的なばかりのみごとさで、松陰によってとりだされてしまったのである。
これではどうも生涯、松陰についてゆくしか自分のみちはないかもしれない、と高杉はおもった。(p.106)
松陰は革命のなにものかを知っていたにちがいない。革命の初動期は詩人的な予言者があらわれ、「偏癖」の言動をとって世から追いつめられ、かならず非業に死ぬ。松陰がそれにあたるであろう。革命の中期には卓抜な行動家があらわれ、奇策縦横の行動をもって雷電風雨のような行動をとる。高杉晋作、坂本竜馬らがそれに相当し、この危険な事業家もまた多くは死ぬ。それらの果実を採って先駆者の理想を容赦なくすて、処理可能なかたちで革命の世をつくり、大いに栄達するのが、処理家たちのしごとである。伊藤博文がそれにあたる。松陰の松下村塾は世界史的な例からみてもきわめてまれなことに、その三種類の人間群をそなえることができた。(p.148)
晋作ほどその生涯において、
「狂」
という言葉と世界にあこがれた男もまれであろう。かれ以外の人物では、かれの師匠の松陰がいるくらいなものであった。松陰はその晩年、ついに狂というものを思想にまで高め、「物事の原理性に忠実である以上、その行動は狂たらざるをえない」といったが、そういう松陰思想のなかでの「狂」の要素を体質的にうけついだのは、晋作であった。(p.211)
正論というものほど、時にとって妙なものはない。
この時期、長州藩の公式代表である長井雅楽の意見ほど、正論はなかったであろう。かれの「航海遠略策」は、開国か鎖国攘夷かの両論で混乱しきっている時勢に対し、これほど卓越した鎮静剤はなかった。さらにこの策は、日本の将来を展望して、それを薔薇色に予想してみせたが、志士たちには不満であった。
不満だけでなく、
「長井斬るべし」
という議論が京の志士のあいだで沸騰してきた。これもあれも時勢の魔法というしかないのは、長井を斬るべく追いまわした伊藤俊輔が、のちに博文と名をかえて明治開国政府の有力者になったことでもわかるし、さらには幕末の煮つまった段階で時勢収拾の役割をはたした土佐の坂本竜馬は、かつて長井が打ちだした「航海遠略策」とほぼかわらない意見のもちぬしであった。が、坂本は時勢の魔術性というものをどうやら天性知っていたらしく、時勢の紛糾がぎりぎりのフクロ小路に入りこむまでこの意見を露わにしなかった。それ以前にこの「正論」を露わにしておれば、かれは自分の同志である攘夷家に斬られていたであろう。(p.239)
世に棲む日日 1巻
世に棲む日日 3巻
世に棲む日日 4巻
ソーシャルブックシェルフ「リーブル」の読書日記