やがて消えゆく我が身なら(池田清彦/角川書店)
タイトルからもわかるように、かなりシニカルなエッセイ。
帯には「ヒトの死亡率=100%・・誰であろうが同じです。」と書いてあった。
構造主義生物学の先生らしく、生物学の見地からの世情の分析といった内容が多い。
一つの章につき5~6ページずつで完結する形になっており、時事ネタを扱っていることが多いために、今となっては風化してしまっている話題も多くあるけれども、いずれも単なる新聞の社説のような当たり障りのない内容ではなく、かなりはっきりとした持論を展開している。
養老猛さんの本を読んでも思うことだけれど、生物学者の視点というのは、非常にシンプルで面白い。世の中の余計なしがらみを除外して、いきなり本質的な思考に入るストレートさがある。人間もまた生物の一種として単純化してとらえていることがよく伝わってきて、今まで思いつきもしなかった新しい視点を多く与えてくれた本だった。
【名言】
生物が生きるということは、他種や他固体とコミュニケーションしながら変化していくということだ。いかなる権力をもってしてもこの変化を止めることは不可能である。私も保守主義者の一人として、気分としては日本の固有生物相は守りたい。しかしすでに侵入して混血児まで作っている高等動物の命を奪ってまで、私の気分を満足させようとは思わない。生物多様性の保全というのは、たかだか人間の考えた理念にすぎない。生物は人間が何をしようと、何を考えようと、総体としては決して絶滅することなく、したたかに生き延びていくだろう。(p.173)
遺伝的に優等なアーリア人の血統を増殖させ、劣等なユダヤ人の血統を絶滅させようとしたナチスの企ては、アーリア人は優秀に違いないという根拠なき誇大妄想の産物であった。遺伝的バリエーションについて言うならば、人種内の個人間の差の方が、人種の平均値の差よりも大きいのである。人種という概念を死守し、それを固定できると考えるのは人種差別主義者の頭の内にしかない夢である。人種は生物学的には定義できない。人々がこのような考えに取りつかれるのは、人間の多くの形質は遺伝的に決定されていると考えているからに違いない。しかし、どんな形質も遺伝子だけで決定されているわけではないのだ。(p.216)
個性や多様性が叫ばれて久しいが、清く正しく美しくの中だけの多様性じゃしょうがない。何といったって現実は、狡く醜くいかがわしいんだから。一人のエリートと百人の家畜ではなく、五人のエリート、五人の天邪鬼、三十人の働き者、五十人のわがまま、十人の怠け者、といったあたりがちょうどよいと私は思う。(p.230)