パロール・ドネ(レヴィ=ストロース/講談社)
レヴィ=ストロースが、コレージュ・ド・フランスと高等研究院でおこなった32年間にわたる講義について、大学に提出した簡潔な報告書を一冊にまとめた本。報告書であるということで、レヴィ=ストロースの一般的な著作に比べると、だいぶわかりやすく書かれているらしいのだけれど、それでもかなり難解な内容だと思った。
これを読んでいると、社会人類学というのは、かなりエキセントリックな学問だということがわかる。死者と生者の契約関係について、それを当然のものとして、非常に論理的な方程式に変換して代数学で語っていたり、霊魂の存在について論証したり、婚姻というものを女性を贈り物とした交換贈与として冷静に分析していたり、こんなもの普通の会話で話してたらかなり変だろうと思う事柄が淡々と語られているのが面白かった。
講義録のまとめとしての報告書なので、詳しい内容についてはほとんど触れられておらず、その年の授業でどんな事柄を扱ったかということの要約としての性格が強い。どういうことなのかもっと詳しく教えてほしい、と思うところもあるけれど、そういう部分はそれぞれ専門の著書を読めばいいことなので、そこへの導入として、とても優れた概説書だと思う。
【名言】
スワイフウェの仮面は、もっぱら高位リネージの所有物となっており、相続や結婚によらなければ継承できない。仮面の所持者がそれらを人前で披露するのは、ポトラッチや非宗教的な祝祭のときだけに限られており、冬の大祭が続いている間は、仮面が人目に触れることはけっしてなかった。それらの仮面は、所持者たちに富と物質的成功をもたらすだけでなく、金銭と引き換えに仮面所持者から協力を取りつけることのできた者たちにも、富と物質的成功をもたらすと考えられていた。(p.144)
カニバリズムを習俗とする社会のきわだった特徴は、この慣習に関して、女性が有標の位置を例外なく占めるという点にあるように思われる。ここでの有標性とは、言語学者の言う否定性である。たとえばアフリカ、ニューギニア、インドネシアの社会では、女性は食人祭儀に招かれる客としても、食材の人肉としても、これに関与することはない。それどころかそうした社会の女性たちは、人肉を食することを禁じられており、こうした食人の機会において女性の肉を供することは御法度である。
それとは対照的に、多くのアメリカ社会やポリネシア社会の一部では、「純粋」なカニバリズムに類似する食人の宴会でも、また死せる敵の遺骸の切断行為や生身の捕虜の拷問などの儀礼でも、女性に主要な役割を与える。したがってカニバリズムに関するかぎり、女性にあてがわれる位置が中立的なものであることはめったにない。社会が彼女らが排除しない場合、仮にこう表現することが許されるなら、「過剰」にふるまうことを期待されるのは、つねに女性であると言うことができる。(p.190)
一般交換の体系で、Aは、そこから彼は妻をもらったBに対してだけ負債者であり、同様の理由から、BはCに対してだけ、Cはnに対してだけ、nはAに対してだけ負債者であるにもかかわらず、婚姻が起こると、Bはnに対して、CはAに対して、nはBに対して、そしてAはCに対して直接的な請求権を持つかのようである。(p.232)
婚姻上の縁組みは、ある集団に妻として譲渡された女が、姉妹という称号のもとで他方の集団への自分の義務を保つかぎりにおいてのみ、集団同士を結びつける。日本のイエ(家)において、夫=妻の組は兄弟=姉妹の組よりも優位にある。他所から来て家を存続させる養子は、他所に嫁いだ姉妹よりも重視され、また別の家(分家)を起こした兄弟よりも重視されるが、元々の家(本家)の跡継ぎたる長兄と暮らさないとすれば、従属的な身分をも免れることができる。中根によって引用された諺はこう言う。「キョウダイは他人のはじまり」(p.276)
われわれは、生者が死者に対してしめす二通りの態度が相関関係にあることをしめそうとした。二通りの態度のうち一つ目のものは、「感謝する死者」という民間伝承の主題にその実例を見ることのできるもので、生者と死者の間の契約の概念にもとづいているように見える。すなわち死者は、生者から定期的に尊敬と敬意を捧げられることによって、生者に害をなすようなふるまいを控えて、平穏のうちにそっとしておかれる。それだけでなく、死者は生者に対して、季節ごとの規則正しい再訪、大地と女性の豊饒、そして務めに忠実である者には長寿を保障するのである。
このような「生活様式」に対して、二つ目の態度は「企む騎士」という、また別の民間伝承の主題のうちに表現されているものである。ここでは、生者と死者は際限のない勢力争いに没頭しているかのようである。生きている者たちは、死者が切に望んでいる休息を彼らに与えようとしない。生者は、魔の力で支配したり、社会論理を動員して先祖の血脈に訴えかけることによって、自分たちの野心や虚栄心を満たすために、絶え間なく死者を動員しようとするのである。生者がかきたてる恐怖によって、威信は保たれ、魔術の力を人は認めるようになる。しかし、死者は、最後の眠りにつくのを拒まれたことに対して高い代償を生者に支払わせるのである。(p.312)
私の記憶が正しければ1953年の暮れ、タルコット・パーソンズはパリに立ち寄った折、私にアポイントメントをとってきた。ユネスコのロビーで、彼がブリーフケースから取り出して私に差し出してみせたのは、ハーヴァード大学の終身正教授職の契約書で、あとは私がサインすればよいだけになっていた。彼は、驚きついでに私がその場でサインするものと思い込んでいたようである。パリ高等研究所院の研究指導員の一人にすぎなかった私にとって、そのような申し出は願ってもないもののようにも思えた。けれども、私はそれを辞退することにした。なぜなら、ニューヨークで過ごした歳月が実り多いものであったにもかかわらず、学者としてのキャリアを終えるまで生まれ育った土地を離れて暮らすという考えを、どうしても受け入れることができなかったからである。(p.330)