『イーロン・マスク』上下巻(ウォルター・アイザックソン/文藝春秋)
作者は、前作『スティーブ・ジョブズ』と同様、かなり対象に密着して、行動を共にしながら伝記を書いているようだけれど、それにしては、いろいろとマスクにとって不都合な内容も含めてありのままに書いているなと思う。
これを、本人が公認したうえで出版しているとのことで、しかも、出版前の原稿のチェックも要求しなかったという。イーロン・マスクというのは、そうとう懐が広い人物だと思い、その器の大きさには感心した。
成し遂げた成果と同じかそれ以上に、不名誉な失敗も数多いけれど、そのことを隠さずに、すべてを公正に書いていることが、この伝記の価値だ。
しかも、数多くの関係者、それも、元恋人だとか、喧嘩別れをした元同僚だとかにも詳しくヒアリングをしていて、著者の取材力には驚く。
よく、当人が生きているうちに、これほどに様々な人々の証言を踏まえた、客観的な人物伝を出版することが出来たと思う。
時系列に沿う形で、古い出来事から順番に書かれているけれど、この、時間順という書き方が良かったと思う。
テスラ、スペースX、ツイッターやその他の全ての会社を同時並行で、しかも全力で陣頭指揮をしながら運営していくことの過酷さがよくわかる。
ここまでツイッターで修羅場を経験していながら、その同じ時期に、よく他の会社の会議に参加したり、プライベートでのゴタゴタを処理したりを同時にできるなと感心する。
並の人間ならまず、まともな精神状態ではいられない。
もちろん、マスクほどのリスク耐性やレジリエンスがあってもなお、精神的な負荷は相当なものなのだろうけれど、それでもここまで精力的に会社のCEOとしていくつもの難事業を遂行してこれたというのは、他の人には到底なし得ないことだろうと思う。
前作『スティーブ・ジョブズ』と比べると、あまり物語性は感じられなかった。
新聞記事のように、ただ事実を時系列に沿って書いている感じで、正確性は高いのだろうけれども、かなり淡々としているので、ドラマチックさはほとんど無い。
本自体も、なにかわかりやすいオチやまとめがあるわけでもなく、2023年の途中あたりの記録まで進んだところで突然に終わる。
でも、それこそが、イーロン・マスクという人物なのかもなと思う。
世間に対してのイメージとか演出を意識することなく、そんな余計な事に時間を使う気もなく、自己のビジョンを追い求めることが最もプライオリティーの高い行動原理になっているような気がする。
だから、人々に語り継がれるような名言を発することはほとんどないし、自分自身の人生を一遍の詩のように捉えるようなロマンチックな感性は持ち合わせていないのだろうと思う。
ネジ一本に至るまで、論理に裏付けされたコストカットをやり尽くさないことには納得いかないし、すべての判断材料は、数字や科学技術がベースになっている。
骨の髄からのリアリストで、その徹底ぶりには本当に敬服する。
名言
スコシアバンクでの経験は、別の意味でもマスクにとって意義あるものだった。人の下で働くのは好きでもなければ上手でもないと身に染みたのだ。他人に敬意を払うとか、ほかの人のほうが自分より詳しいかもしれないと考えるとか、そういうことができるタイプではない、と。(p.79)
ふたりでパーティ三昧の生活をしたわけだが、マスクが周囲と距離を置き、自分の世界に引きこもるタイプであることをレッシは理解していた。他の星から来た観察者で、社交性とはいかなるものであるのか学ぼうとしているかのように、だ。(上巻p.85)
ミューラーは、スペースXにおける本格採用の第1号となった。
このときミューラーは、報酬2年分を第三者預託にすることを求めた。自分はインターネットミリオネアではないし、会社が倒れて無職になるリスクはとれない、というわけだ。マスクはこれを承知した。ただ、この件から、ミューラーはスペースXの共同創業者ではなくあくまで社員だとマスクは考えるようになった。これはペイパルで経験した戦いであり、のちにテスラでもくり返すことになる戦いである。会社に投資する意志のない者は創業者になりえない。マスクはそう考えている。
「自分は共同創業者だ、と、2年分の給料を第三者預託にしてくれ、は両立しえません。やる気と汗とリスクがそろわなければ共同創業者にはなれないのです」(上巻p.163)
生産工程のすべてを掌握すべきとしたマスクの考えは正しかったと、マークスもいまは考えている。だがマスクの本質に対する疑問にはまだ答えが出せずにいる。必ずオールインしてしまう気性だからあそこまで成功したわけだが、あのひどい言動はすべてその気性から来るものなのか関係ないのか、だ。
「マスクはスティーブ・ジョブズと同じタイプだと思っているんです。とにかくクソなヤツはいるものだ、と。ところが、ふたりともすごい成果をあげています。で、つい、考えてしまうわけです。『もしかして、あの性格と成果はセットなのか?』と」(上巻p.245)
マスクは規制を目の敵にする。他人の定めた規制に従うのがいやなのだ。モデルSの開発が最終段階に入ったころ、ふと、助手席のバイザーを下ろしたマスクは目をむいた。
「なんだこれは?」
指さす先にあるのは、エアバッグに関する警告や子どもを助手席に乗せるときエアバッグをオフにする方法が書かれたラベルだ。国の規制で貼らなければならないのだとデイブ・モリスが説明してもマスクは納得しない。
「なくせ。ユーザーはばかやろうじゃない。このステッカーがばかやろうだ」
この規制を回避するため、テスラは、助手席に子どもが座ったと感知してエアバッグの展開を止めるシステムを開発した。だが、であればラベルはなくていいと国は了承しない。マスクもあきらめない。というわけで、このあと何年も、テスラは、おりおりリコール警告を出す米国運輸省道路交通安全局と押し合いをすることになる。(上巻p.294)
オラクルの創業者ラリー・エリソンが社外取締役を引きうけたのはわずかに2社、アップルとテスラだけだ。そして彼は、ジョブズともマスクとも親しい友人になった。彼は、ジョブズもマスクも強迫性障害を持つが、それがいいほうに働いたケースだと考えている。
「彼らが成功した一因は強迫性障害にあります。問題に気づくと、なにがなんでも解決してしまう、そうせずにはいられないからです」
マスクがジョブズと違うのは、製品のデザインに加え、それを支える科学や工学、生産にまで脅迫的な接し方をする点だという。
「スティーブは概念とソフトウェアさえきっちり押さえられればよくて、生産は委託していました。対してイーロンは、生産や材料、巨大な工場までなんとかしようとします」
ジョブズは現場を見て歩くのが好きで、アップルのデザインスタジオに日参したが、中国の工場は訪れたことがない。対してマスクは、デザインスタジオより組立ラインを見て歩くことが多い。(上巻p.317)
「中止すべきです」--ジュンコーサはマスクに進言した。秒読みは最後の1分に入るあたりだ。
マスクは、数秒、考えを巡らせる。段間に液体酸素が漏れていたら、どのくらい危険なのか。危ないのはたしかに危ない。だがリスクとしては小さい。
「気にするな。このままいくぞ」
この何年もあと、マスクがこう決断したときの動画を見直しつつ、ジュンコーサは次のように語ってくれた。
「いろいろ複雑なことをさっと検討し、どうすべきかを決めたんだみたいにあのときは思いましたが、でもほら実際は、ひょいと肩をすくめてやるぞと言っただけみたいな?物理的にどうなるか、ほら、直感的にわかるのでしょう」
マスクの勘は正しかった。リフトオフは完璧だった。(上巻p.337)
ディナー検討会には、グーグルの研究者、イリヤ・スツケヴェルも参加していた。マスクとアルトマンは、190万ドルもの給与と契約金を示して彼を引き抜き、OpenAIのチーフサイエンティストに迎える。ペイジは激昂した。家にもよく来ていた友だちがライバル研究所を立ち上げ、さらに、グーグル最高クラスの人材を引き抜きにかかっているのだ。2015年末にOpenAIが開設されたあとは、言葉を交わすこともほとんどなくなったという。(上巻p.352)
・規則と言えるのは物理法則に規定されるものだけだ。それ以外はすべて勧告である。(上巻p.412)
ロボットやレゴといったおもちゃからヒントを得ろと口を酸っぱくして言う。工場の現場では、レゴブロックの精度を機械工に語って聞かせる。誤差は10ミクロン以下。だからどのピースを組みあわせてもカチッとはまるのだ。車の部品もそうでなければならない。
「精度は金の問題じゃない。どこまで気を遣うかだ。精度を上げようと注意する気はあるか?それさえあれば精度は上げられる」(下巻p.35)
打ち上げ当日の朝、米連邦航空局(FAA)の担当監察官は、高層の風から打ち上げは危険だと判断した。ロケットが爆発でもしたら、近隣の家に被害が出るおそれがある。スペースXの気象予測モデルでは安全だと予測されていると反論するが、FAAは判断を撤回してくれない。
FAAはリモートで打ち上げを監督していて管制室に担当者はいないし、規則も不明瞭なところがなきにしもあらずだ。打ち上げ責任者がイーロンのほうを向き、意味ありげに首をかしげる。これにマスクは軽いうなずきで答える。あうんの呼吸だ。ロケットはそのまま打ち上げとなった。
「なんとも微妙な話です」とケーニヒスマンは言う。「あれがイーロンなんです。うなずくだけでリスクを取ると伝えるんです」(下巻p.53)
「大衆市場向けの電気自動車はいずれ登場するはずのものでした。私がいなくてもいつか生まれたはずなのです。ですが、宇宙を旅する文明になるのは、話が違います」
50年も前に米国は人を月まで送り届けた。だがそのあと、進歩はなかった。退歩だけだ。スペースシャトルも低地球軌道までしか飛べなかったし、シャトルが退役したらそれさえもできなくなってしまった。
「技術というのは、放っておいても自動的に進歩するものではありません。今回のフライトは、進歩の裏に人間の力があることをはっきりと示してくれました」(下巻p.104)
グライムスとマスクの娘が生まれると、ふたりは名前をどうするか、相談を始めた。これが終わらない。最初はセーラーマーズと呼んでいた。マンガ『美少女戦士セーラームーン』に登場するセーラー戦士のひとりだ。ちょっと変わってはいるが、火星に行くかもしれない子どもなのだから、らしいとも言えるだろう。だが4月になると、すごく活発でおもしろい子なので、そこまで「きまじめ」な名前でないほうがいいのではないかとなる。というわけで、エクサ・ダーク・サイディリールに落ちついた--そのはずが、2023年に入ると、やはりアンドロメダ・シンセシス・ストーリー・マスクがいいのではないかとなる。ただ実際には、シンプルにYと呼ぶことが多い。ホワイ?と疑問符付きの発音をすることもある。(下巻p.144)
グライムスも、マスクに言われて『ポリトピア』をダウンロードしたという。
「ビデオゲーム以外に趣味とか気持ちを緩める方法がないんですよ。ただ、真剣になりすぎるのが困りものです」
協力して他部族と戦う約束をしていたのに、フレイムボールで彼に奇襲をかけたことがあるそうだ。
「かつてないほどの大げんかになりました。信じられないほどの裏切りだって言うんです」
ビデオゲームにすぎないんだから怒るほどのものではないと言っても「マジ怒るほどのものだ」と取り付く島もなく、その日はずっと口もきいてもらえなかったという。(下巻p.160)
ふたりの間には放っておけない問題がひとつあった。ゲイツは、テスラの株価が下がることに大きく賭け、空売りをしかけていたのだ。その予想は外れ、ゲイツはオースティン来訪時で15億ドルの含み損を抱えていた。その話を聞いたマスクははらわたが煮えくり返った。大嫌いなものの中でも一番大嫌いなのが空売り筋だからだ。ゲイツが謝罪しても、マスクの気は収まらなかった。
この背景には、考え方の違いがある。なぜテスラに空売りをしかけたのかと尋ねたところ、電気自動車は供給が需要を上回り、価格が下落すると判断したからだと返ってきた。うなずきつつ、さきほどの問いを繰り返す。で、なぜテスラに空売りをしかけたのか、と。いま説明したじゃないかという表情が一瞬よぎったあと、どうしてこんな当たり前のことを言わなきゃいけないんだという感じで答えてくれた--空売りすれば儲かると思ったから、と。
マスクにはない考え方だ。マスクは電気自動車に向けて世界を動かすというミッションを信奉し、有り金すべてをつぎ込んできた。安全な投資とは思えなくても、だ。
「どうして、気候変動と真剣に戦っていると言いつつ、一番奮闘している会社の足を引っぱるようなことができるんでしょうね」(下巻p.178)
「資金が尽きそうなスタートアップだと思え。もっと早く。もっと早くだ。遅れは必ずチェックすること。悪いニュースはこまめにはっきりと知らせろ。いいニュースはまとめてそっとでいい」(下巻p.251)
「だめだ」--マスクは切り捨てた。「だめだ。だめだったらだめだ」
音が消え、時だけが刻まれていく。
「ミラーなし、ペダルなし、ハンドルなしだ。責任はオレが取る」
微妙な空気になった。同席していた幹部のひとりが切り出す。
「あ~、その点についてはのちほどまた・・・」
「はっきりさせておく」--マスクはゆっくりとこう言った。極冷モード発動である。「この車はまごうかたなきロボタクシーにする。そのリスクを取る。それで失敗したらオレが責任を取る。とにかく、両生類のカエルみたいに半分車なんて設計にはしない。自立運転にオールインするんだ」(下巻p.275)
ツイッターは人に優しい職場であることを前面に押し立てている。甘やかしは善なのだ。
「ツイッターは、まちがいなく、共感にすぐれ、多様性を尊重してどんな人にもウェルカムな会社でした。社員には、安心して仕事をしてほしかったんです」と、マスクにクビを切られるまで最高マーケティング・人事責任者を務めていたレスリー・バーランドは言う。だから、完全在宅勤務も選べるし、心の「休息日」も毎月1日取ることができる。「心の安全」という言葉がよく使われる職場で、不安を取りのぞく努力がなにかと払われてきた。
「心の安全」なる言葉を耳にしたとき、マスクは、ふっと苦い笑いを漏らした。切迫感、進歩、軌道速度など、彼が大事にするものの敵であり、背筋がぞっとする言葉なのだ。そんな彼が好んで使う言葉は「本気」だ。また、彼にとって、不安はいいものだ。充足感という病と戦う武器になるからだ。休暇、花の香り、ワークライフバランス、「心の休息日」など知ったことではない。(下巻p.282)
マスクは、研究チームが発見したとある事実の重要性を理解した。ニューラルネットワークは100万本のビデオクリップでなんとか実用レベルに達し、150万本を超えたあたりから性能がどんどん上がっていくという事実だ。言い換えれば、ほかの自動車会社やAI会社に対してテスラは大きく有利な立場にある。なにせテスラ車は200万台近くも世界各地を走っていて、毎日何十億フレームも動画が手に入るのだ。(下巻p.413)