白河夜船(吉本ばなな/角川書店)
「白河夜船」「夜と夜の旅人」「ある体験」3編を収めた短編集。
どの話しも、現実世界とは違った世界と微妙に重なり合っているような、変わった雰囲気がある作品だった。
昼間の、明るい光の下の物語ではなく、深い夜のゆっくりとした時間の流れの中で語られているような印象の物語。海の底からだんだんと浮上していくような感じで、後味がよかった。
【名言】
別に緊張していないのに、二人はほとんど話をしなかった。彼はとても端整で不思議な印象の横顔をしていて、時々、私にいろいろなことを語りかけた。私は、うなずいて聞いた。うなずきながら、この人は私の人生の時間をたくさんとりそうな人だ、と私はなんとなく直感した。夕方なのに朝のようだったからかもしれない。まだ寝ぼけている二人があまり話しもせずテーブルを囲んでいる場面に、それは似ていた。私はその時、これから二人の間に起こるかもしれない柔らかいことをそんなふうにいろいろ想像したが、なぜかすべて冬のイメージになった。蒸気のある白い部屋や、コートを着て歩く二人や、冬の木立ばかりが見えた。それがとても、切なかった。「白河夜船」(p.71)
ああ、なんだかついさっき目が覚めたばかりみたいで、なにもかもがおそろしいくらい澄んで美しく見える。本当に、きれいだった。夜をゆくたくさんの人々も、アーケードに連なるちょうちんの明かりも、少し涼しい風の中に立ち、待ち遠しそうに真上を見ている彼の額の線も。
そう思うと突然、なにもかもが完璧すぎて涙がこみ上げてきそうになった。見回す風景の中の、目に入るすべてが愛しく、ああ、目を覚ましたのが今ここでよかった。いつもは車がいっぱいのこの通りがこんなに広い空地になった、真ん中の所に二人で立ち、花火を待ち、うなぎを食べて、一緒に眠ることのできる今夜を、こんなにはっきりした精神で観ることができて嬉しいと思ったのだ。「白河夜船」(p.75)
あの時、夜はうんと光っていた。永遠のように長く思えた。いつもいたずらな感じに目を光らせていた兄の向こうには、なにか、はるかな景色が見えた。
パノラマのように。
それはもしかしたら、子供心に見上げていた「未来」だったのかもしれない。あの頃、兄は決して死なないはずのなにか、夜と夜を旅するなにかだった。「夜と夜の旅人」(p.115)
「ねえ、毬絵。私たちのこの一年間は不思議だったよ。人生の流れの中で、ここだけ空間も、速度も違う。閉ざされていて、とても静かだった。後で振り返ってみたら、きっと、独特の色に見える、ひと固まりの。」「夜と夜の旅人」(p.142)
「ねえねえ今、あたしたち、ちょっとだけ心が通じちゃわなかった?」
「うん、通じたかも。」
私はうなずいた。
部屋は外界から閉ざされ、雷は音を立てて遠くからくり返しやってきた。室内の空気は濃く固まり、ひそめた息さえも、その小さな完璧さをさまたげるように思えた。ある種の貴重さだけがそこにしんと光っていた。もうすぐ終わる。枯れ果てて消える。みんな離ればなれになる。その確信だけがくり返しやってきた。「ある体験」(p.179)