この国のかたち(全6巻)(司馬遼太郎/文春文庫)
雑談的に、日本の様々な歴史についてあっちへ行ったりこっちへ行ったり色々なテーマについて書き連ねている。本人にとってはほんとうに雑談のような気軽さで書いているのだろうけれども、それでも、この著者の、歴史についての豊富な知識を充分うかがわせる内容になっている。
毎回題材として挙げられる内容も、その展開も、まったくのアトランダムで、その縦横無尽さがいい。明治維新の話しをしていたかと思うと突然戦国時代や平安時代の話しになる。ふらふらしているようで、最後には一本の筋が通って話がまとまる。読んでいてなるほどと感心することばかりで、一つの筋道だった物語を読む時とはまた違った面白さがある。
一つ一つのテーマは、十数ページくらいのまとまりなので、とても読みやすい。物識りのおじいさんから、直接、昔話を聞いているような気分になる本だ。
【名言】
「私は、日本史は世界でも第一級の歴史だと思っている。ところが、昭和十年から同二十年までのきわめて非日本史的な歴史を光源にして日本史ぜんたいを照射しがちなくせが世間にあるようにおもえてならない。」(1巻p.83)
「日本史には、英雄がいませんね」と、私にいった人がいる。この感想は正鵠を射ていると思った。
この場合の英雄とは、ヨーロッパや中国の近代以前にあらわれた人間現象のことで、たとえばアレクサンドロス大王や秦の始皇帝、あるいは項羽と劉邦といった地球規模で自己を肥大させた人物をさし、日本史における信長、秀吉、家康という、いわば「統治機構を整えた」という人達を指さない。世界史的典型としての英雄を日本史が出さなかった--というよりその手の人間が出ることを阻みつづけた--というのは、われわれの社会の誇りでもある。(1巻p.144)
ふと思うことだが、一介の浪人の力で薩長という二大雄藩の握手が可能なはずがない。発言の立脚点として、海援隊の勢力があったといっていい。さらにかれは役人にはならないということをつねづね語っていた。大政奉還という奇手が可能だったのも、かれが新政府に官職をもとめるということをせず、いわば無私になることができたからだ。無私の発言ほど力のあるものはない。(1巻p.202)
思想というのは、結晶体のようであらねばならない。あるいは機械のように、ときには有機化合物のように論理が整合されていなければならないのだが、その意味で、日本における最初の「思想」は、九世紀初頭、空海(774~835)が展開した真言密教であるといえる。(2巻p.217)
「ここで、遊びとしての作業をしてみたい。まず、『江戸時代をそのままつづけていてもよかったのではないか』ということである。答えは、その場合、十中八九、どこかの植民地になっていただろう。(3巻p.21)
ソーシャルブックシェルフ「リーブル」の読書日記