アースダイバー(中沢新一/講談社)
本当に面白い本を読んでいる時には、ゾクゾクするような奮えがおこる。この「アースダイバー」という本は、かなり奮えまくりな本だった。
東京は、新石器時代から人が生活していたので、代官山のような街の真ん中に、縄文時代の遺跡がそのまま残っていたりする。しかも、大昔から古墳や貝塚があったような場所には、神社や寺が建てられて、そういう場所はどれだけ都市開発が進んでも、そのままの姿で残されている。
東京は、大都会という姿を持ちつつも、その中に大昔の名残を残しているという、かなり特殊な街なのだということが、この本を読むとよくわかる。
面白いことに、放送局や主要大学などは、決まって、大昔に岬があって死者を埋葬した土地の上に建てられているのだという。この著者に言わせれば、東京はいたるところ死者の世界と隣り合わせということになる。
新宿や渋谷や銀座などの街の成り立ちの歴史なども、今からでは想像出来ないような出来事の連続で、ものすごく驚かされることばかりだった。こういうのが、本当の歴史の面白さなのだろう。
この中沢氏は、物事を見る時の視点も面白い上に、それを説明する文章がものすごく上手い。この本を読めば誰でも、東京という街を歩く時、これまでより何倍も興味深く見られるようになることは間違いないと思う。
【名言】
どんなに都市開発が進んでも、ちゃんとした神社やお寺のある場所には、めったなことでは手を加えることができない。そのために、都市空間の中に散在している神社や寺院は、開発や進歩などという時間の侵食を受けにくい、「無の場所」のままとどまっている。(p.14)
東京の散歩を続けていると、東京の重要なスポットのほとんどすべてが、「死」のテーマに関係をもっているということが、はっきりと見えてくる。古いお寺や神社が、死のテーマとかかわりがあるのは当たり前だとしても、盛り場の出来上がり方や、放送塔や有名なホテルの建っている場所などが、どうしてこうまで死のテーマにつきまとわれているのだろうか。
しかし、これは死にかかわることを嫌って、自分たちのそばから遠ざけておこうとする近代人だから、そんな考え方をするのであって、かつては死霊のつどう空間は、神々しくも畏れるべき場所として、特別あつかいをされていたのである。そこは神聖な空間だからこそ、重要なスポットだと考えられていた。(p.60)
権力を手に入れた人たちは、生きている者たちのつくるふつうの世界から超越していなければならない、と感じるものである。そのためにどうしても、生をこえた領域である死に触れていくことになる。権力者は死とまぐわっていなければ、いったん手に入れた権力を、保ち続けることはできない。(p.61)
都内の有数の森は、その多くが天皇家にかかわりをもっている。明治天皇の御霊を祀る、明治神宮の森の広大さは言うまでもないが、天皇ご自身も、深い緑におおわれた皇居の奥に、おすまいになっている。天皇ご自身が、森の中にサステナブルに身を潜められたというような事例は、近代天皇制の以前には、南朝の例以外にはない。(p.71)
金魚的怪物は、同じものをつくらないという逸脱の美を誇っている。ところがここに、それとはちがう原理によって生まれた、別のタイプの怪物がいることを忘れてはならない。それはなにあろう、盆栽である。盆栽はどんなに細部までおりていっても、すこしも情報量が減らないという怪物である。(p.140)
東京湾はそうとうに複雑な形状で入り江をつくっていたから、リアス式の海岸のようなもので、陸地だったところにできた高台には、早くから人が住んだ。それからおいおい水が引いてきて、湿地帯だったところに土を盛ったりして、そこにも人が住むようになった。だから、東京には異様に坂道が多いのである。(p.188)
浅草のなりたちを見ていると、ぼくはなぜその土地が、日本のモダニズムの中心地となったのか、理由がわかってくるような気がするのである。浅草はアメリカにできていった街と、よく似ている。ここは縄文地理学の影響を免れた、都内でも数少ない盛り場なのだ。(p.191)