胎児の世界(三木成夫/中央公論新社)
最初、タイトルを見た時は、「胎児から、外界の音や光などの環境はどう感じられるのか」ということについて説明をした本だと思っていたのだけれど、全然違った。
もっと神秘的で、不可侵の領域に入っていく、胎児という存在そのものの不思議に分け入る本だったことを、読んで初めて知った。
人間の胎児も含めて、あらゆる生物は、発生の段階で、その種がそれまでの歴史の中でたどった「魚類→両生類→爬虫類」といった進化の歴史をひととおり繰り返すということをした後に、さらに種固有の成長をしていくらしい。
それは、ものすごく短時間の間におこなわれる出来事で、鳥の場合は、数時間のうちに気が遠くなるほど長い年月分の進化の歴史を再現していることになる。人間の場合でも、着床から30日程度経過した時点から数日の間に、進化の反復はおこなわれる。
鳥やトカゲとは異なり、人間の胎児となると、発生の過程での解剖はそう簡単ではない。そこには、神域を侵すような、畏れの感情がつきまとう。
この筆者の文章は、とても文学的で、いたるところ繊細な感傷に満ちている。特に、伊勢神宮で20年ごとにおこなわれる遷宮を生物の代謝になぞらえて語っているところは、とても面白い。その表現からは、科学者というよりも、よほど宗教家に近いような印象を受ける。
しかし、この本は、そういう筆者だからこそ書けたのだと思う。単なる実証科学的見地からは、胎児の世界というのは描写不可能なものである気がする。
【名言】
やはりヒトの胎児を見ないことには・・。これは、最初の脾臓のときからの課題であった。この課題は、当然、その胎児への墨の注入という問題にまで発展してくる。この情景はよく夢に見た。ヒトの胎児の心臓に針を差しているのだ。見物人がいて、「むごいことをする」という。この問題については、意識の片すみでつねに自問自答が繰り返されていた。できる、できない、ではない。やらなければならないのだ。いつの間にか、ヒトの胎児への注入は、このわたくしにとって宿命的な一つの義務と化していた。(p.100)
さらに二日後の36日。ここには、まさにひとつの表情をもった顔が黙ってこちらを向いている。あの夏の終わりの一日、木立の窓辺で、「ハッテリア!」と心中で叫んだあの顔だ。こうして見ると、さきの34日は、魚類から両生類にかけてのものか・・。それは、この36日のまさに未然形といえるものだ。わたくしは、この二日間に起こる顔かたちの変化に、そして、ここに現れるほとんど名状し難いほどの表情のなかに、胎児の顔のひとつのクライマックスといったものを見ずにはいられない。なんというすごい表情だろう。(p.112)
羊水を満たした、暗黒の空間のなかで繰りひろげられる胎児の世界、それは人類永遠の謎として神秘のヴェールのかなたにそっとしまっておく、そんな世界なのかもしれない。この世には見てはならぬものがある。近代の生物学は、しかし、この一線をいつもやすやすと乗り越える。自然科学の実証の精神、というより人間のもつ抑え難い好奇心が、その不文律を破ったのだ。(p.151)