論理哲学論考


論理哲学論考(ウィトゲンシュタイン/岩波書店)

ウィトゲンシュタインは、この本によって、哲学問題をすべて解決したと考えて、哲学から離れたのだという。とんでもない話しだけれども、そう言いたかった気持ちはよくわかる。
この本を書く時、おそらく著者は、さっさと哲学などという曖昧なものの根本的な部分を整理して見通しを立てて、余計なことを考えずに済むように片付けておきたいと思って書いたのだろうと思う。
この論考は、人は何を理解することが出来て、何を理解することは出来ないのか、を区別することを目的としている。それは、哲学というものの輪郭をはっきりさせて、その限界を明確にしようという試みでもある。
そのたった一つのことを証明するために、きっちりとナンバリングされた一つ一つの論考によって、徐々に論理を展開して結論へと収束していくわけだけれども、その展開の仕方が、一分の隙もないぐらいに、アリの通る隙間もなくレンガを積んでいくようなやり方で進んでいく。ここまで徹底して構築された思考というのは、美しいと思う。
その思考のベースにあるのは記号学と論理学で、それは、ロジックによって世界を記述するために最も適した方法として選択されたものなのだろう。
この本が出版された当時には、コンピューターというものは、まだ世の中になかったわけだけれども、コンピューターの設計には、このウィトゲンシュタインのような考え方は必要不可欠なものだろうし、もし、コンピューターが現実世界というものを解析しようとした場合には、間違いなくこの「論理的哲学論考」と同じ手法によって、世界を記述するはずだ。
これは、世界を表現するための一種の記述体系で、その点で、ニュートン力学やアインシュタイン物理学が創りだしたものと同等の意味と価値を持つ、偉業なのだと思う。
【名言】
おそらく本書は、ここに表されている思想、ないしそれに類似した思想、をすでに自ら考えたことがある人だけに理解されるだろう。それゆえこれは教科書ではない。理解してくれたひとりの読者を喜ばしえたならば、目的は果たされたことになる。(序文 p.9)
私の為そうとしたことが他の哲学者たちの試みとどの程度一致しているのか、私にはそのようなことを判定するつもりはない。実際私は、本書に著した個々の主張において、その新しさを言い立てようとはまったく思わない。私がいっさい典拠を示さなかったのも、私の考えたことがすでに他のひとによって考えられていたのかどうかなど、私には関心がないからにほかならない。(序文 p.10)
3.02:思考は思考される状況が可能であることを含んでいる。
思考しうることはまた可能なことでもある。(p.23)
4.112:哲学の目的は思考の論理的明晰化である。
哲学は学説ではなく、活動である。
哲学の仕事の本質は解明することにある。
哲学の成果は「哲学的命題」ではない。諸命題の明確化である。(p.51)
4.115:哲学は、語りうるものを明晰に描写することによって、語りえぬものを指し示そうとするだろう。(p.52)
5.453:論理に数が現れるとき、それは必ずしかるべき理由を示されねばならない。
あるいはむしろこう言うべきだろう。論理には数など存在しないということをはっきりさせねばならない。(p.92)
5.454:論理においてはすべてはひとつひとつ自立している。それゆえいかなる類別も不可能である。
論理には、より一般的とか、より特殊といったことはありえない。(p.93)
5.6:私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。(p.114)
6.4311:死は人生のできごとではない。ひとは死を体験しない。
永遠を時間的な永続としてではなく、無時間性と解するならば、現在に生きる者は永遠に生きるのである。(p.146)
6.44:神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。(p.147)
6.5:答えが言い表しえないならば、問いを言い表すこともできない。
「謎」は存在しない。
問いが立てられうるのであれば、答えもまた与えられうる。(p.147)
6.52:たとえ可能な科学の問いがすべて答えられたとしても、生の問題は依然としてまったく手つかずのまま残されるだろう。これがわれわれの直感である。もちろん、そのときもはや問われるべき何も残されてはいない。そしてまさにそれが答えなのである。(p.145)