水滸伝(その1)



水滸伝 1~6巻(北方謙三/集英社)

全19巻あって、まだ先が長いことと、それぞれの巻の中に名言がかなり多いので、1~6巻までで、いったんまとめることにした。
北方水滸伝は、吉川英治版の水滸伝とはかなり異なるところが多かった。
魯智深などは、吉川版では大酒飲みで破天荒な、かなりむちゃくちゃなヤツだったけれども、北方版では「バガボンド」の沢庵和尚のような落ち着いた人格者になってしまって、そういう違いに結構驚く。
他のキャラクターも、新解釈として、かなり独自の味付けがされているけれど、しかしそれでも、これは水滸伝だ、という感じがものすごくする。
「水滸伝」という物語の底流に流れる思想を、北方謙三が完全に理解して自分のものにしているから、どのようなアレンジを加えても、それは水滸伝の原型をそこなうことなく、違和感がまったくない形で新たな物語として、読者はそれを受け入れることが出来るのだと思う。
水滸伝の面白さは、組織論としての面白さだ。
登場人物それぞれに個性があり、その資質にあった役割がある。無敵の強さを誇る者、人の説得に長けた者、そこにいるだけで周りが安心する者、大軍の統率力がある者、教育に向いている者、兵糧や塩の管理能力に優れた者。
その他にも、数え切れないほどの職能を持った人間が集まっていて、しかも、その一つ一つを細かく描写しているので、組織というものがどのようにして成り立つのかということがよくわかるし、自分と似た境遇のキャラクターが必ずいて、感情移入もしやすい。
ケンカの腕におぼえのある人間だけが集まればいいという、烏合の衆としての野盗の集まりではなく、特殊な能力を持つものが寄り集まって、一つの巨大な力を持つ組織になるというプロセスは、かなりワクワクする。
これは完全に、現代でいえば、新興のベンチャー企業がどのようにして組織を大きくしていって、既存の大企業に立ち向かっていくか、という構図と重なって、そういうところも、面白さの大きな要素なのだと思う。
【名言】
宋江:「ひとりでなにができる、と嗤うだろう。しかし、なんであろうと最初はひとりなのだ。俺は、そう思う。愚直と言われれば、そうだろう。しかし俺は、これと思った人間には必ず自分の言葉で語るようにしている。」(1巻 p.126)
(史進:)体力の限界を超えた。ここから死まで。それがほんとうの体力だと、王進に教えられたことがある。鍛錬により、それはかなり長くなる。息も落ち着いた。心気も澄んでいる。ここから死までは、そういう状態が続く。楊志も同じだろう。(2巻 p.117)
宋江は、あまり複雑なことは考えないようにしていた。志を見据え、見失わないようにする。自分のなすべきことは、多分それだろう。複雑なことは、呉用のように頭のいい人間が考えればいいのだ。(2巻 p.198)
李俊:「自由に生きたいのですよ、俺は。役人などに阿ったり、指図をされたりもしたくなかった」
宋江:「そしていま、自由なのか?」
李俊が、言葉を詰まらせた。
宋江:「小さな自由のために、おまえは大きな自由を捨てた。ゆえに、私はおまえがやっていることを、一切認めぬ。おまえが駄目なところを、もっと言ってやろうか、李俊」
李俊:「いや、いい。俺は、自分が駄目だと思ったことはない」
宋江:「そこからして、われらとは相容れることがないのだ。自分は駄目だというところから、われらは、いや少なくとも私は、出発している。自分が駄目だと思っていない人間とは、ほんとうは話し合える余地はなにもない」(4巻 p.224)
(李俊:)これが、ほんとうにやりたいことだった。いままで、いろいろなことをやってきたが、こんなふうに身体がふるえたのは、はじめてのことだ。役人の裏を掻いて塩の密売に成功した時も、昔は思ってもいなかった大きな屋敷を建てた時も、終るとなんとなく違うと思ったものだった。(4巻 p.238)
楊志:「志とは、なんなのだろう、林沖。私も、官軍にいた時、志のようなものを持っていなかったわけではない。それと梁山泊の志と、どちらが正しいかと問われれば、いま自分が属している方の志だ、としか答えられないような気もするのだ」
林沖:「志は、志なりにみんな正しい。俺はそう思う。そして、志が志のままであれば、なんの意味もない」
林沖のもの言いは、冷ややかだったが、間違いではない、と楊志は思った。
林沖:「「おまえが官軍で抱いていた志が実現されれば、それはそれで立派なことだったろう」
楊志:「実現された志こそが尊い、と言うのだな。だから、志を実現させるために、闘わなければならないのだと」
林沖:「「俺は、そう思っている。そして、志についてつべこべ言うことが、好きではない」
楊志:「宋江殿も、そうかな」
林沖:「「いや、宋江殿こそ、志の人なのだ。そしてわれらは、その志にすべてを預けた。われらにできることは、志を実現するために闘うことだけだろう」(4巻 p.283)
武松:「宋江様は、『替天行道』の旗とともにあります。兵が死ぬように、死ぬことは許されていないのです」
宋江:「許されていない?」
武松:「はい」
武松の眼に、あるかなきかの、悲しみの光がよぎった。宋江は、黙って眼を閉じた。自分の闘いをしようと、決めたばかりだ。それは、兵として闘うことではない。(5巻 p.34)
呉用:「魯智深のように、誰にも好かれている男がいる。それだけの、苦労をしたからだ。私は、なんの苦労をした。忙しく駆け回り、頭を搾りはしたがな。嫌われるのが、私の役どころなのだと思っている」
劉唐:「俺は、嫌いじゃないぜ。それに、呉用殿は苦労している。苦労をしていないのは、晁蓋殿と宋江殿ぐらいだろう。あの二人にだけは、苦労をさせてもいかん」(5巻 p.208)
安道全:「魯智深に訊きたい。痛くなかったはずはない。それを、どうやって克服したのだ。おまえは、わずかな汗しかかいていなかった」
魯智深:「生きるも無」
安道全:「坊主のようなことを言うな」
魯智深:「俺は、坊主だ」
安道全:「耐えられるはずがないのだ、あの痛みに」
楊志:「安道全。おまえは、人がこうだと決めてかかっている。そうではない人間がいる。いや、そうではなくなることができる、というのかな。魯智深はそうだ。俺も多分、腕を切り落とすぐらいなら、耐えられる」(5巻 p.218)
石秀:「林沖は、五百の騎馬隊を指揮して、無敵だ。それは、俺も認める。しかし、五万の軍の指揮はできん。五万の軍を、一兵も無駄にすることなく生かしきれるのは、楊志殿だろう」(5巻 p.249)
(周通:)不安な顔、迷った顔。それを部下に見せてはならない。楊志に、はじめに教えられたことだ。いまは、部屋でひとりだった。いくらでも、不安な顔ができた。身体も、ふるえはじめている。ふるえるだけ、ふるえる。泣いてもいい。ただし、ひとりだけの時だ。兵舎の外では、兵たちのかけ声が聞こえる。やるべきことを与えられているというのは、実に楽なことだ。愉しいと言ってもいい。それに較べて、ひとりというのはなんと苦しいことなのか。(5巻 p.324)
花栄:「私は、あの人の苛烈な性格はよく知っている。騙されたということを、許せるかどうかだ。こわいな」
魯達:「それはおまえが、人を騙したことも、騙されたこともないからだよ、花栄。騙されて怒り狂う玉なら、大したことはない。俺の命ひとつぐらいで済むだろう」(6巻 p.44)
王進:「史進は、ここにいる間に、相手の殺気を削ぐということを覚えたのです。大した技ではありませんが、これが時には難しい。特に自分が強いという意識があれば。史進に教えることで、私はさまざまなことを学びました。強すぎるほど強い男にしてしまい、史進はその強さゆえに苦しむことになりましたが、弱さがよく理解できる男に成長しました」(6巻 p.80)
史進:「俺は、朱武殿の下で働くことになっても、なんのこだわりもない。むしろ、力が出せそうな気がするほどだ」
朱武:「選ばれる人間というのは、いるのだ、史進殿。われらは、史進殿が留守の間も、史進殿を隊長としてきた。史進殿は、これまでも、これからも、われらの隊長なのだ。それは、少華山の兵、全員の意思でもある」(6巻 p.87)
林沖:「俺との稽古は、身体にはつらかろう。しかし、心にはつらくない。なんとなく、俺にはそれがわかった。だから、容赦せずに打った」(6巻 p.109)
いつの間にか、夜明けが近くなっていた。結論は、なにも出ない。この国を変えるのに、潰した方がいいのか、改革した方がいいのか。それぞれの考え方で、どちらも正しいと言っていいのだ。話は、こういうものでいいのだ、と魯達は思った。(6巻 p.129)
(袁明:)叛乱をする側と、抑える側。これはただのめぐり合わせではないのか。絶対に正しいものなど、政事の中にあるはずはない。人は、そこまで賢くはなれない。王安石の新法に基づく国家になっていたとしても、旧法党はいて、どこかで叛乱を起こしただろう。大抵の場合、権力を否定する叛乱側の方に、大義はありそうに見えるものだ。(6巻 p.264)
秦明:「いいか、阮小五。戦で勝つと負けるのでは、大きな差がある。大きすぎる差だ。しかし大将の資質を較べれば、小さな差しかない。ほとんど紙一重と言ってよいであろう。あるいは差がなく、運のあるなしが勝敗を左右する。だから、資質で勝つ、資質で負けるということは、あまり考えない方がいい。ただ、人の力でなし得ることはあるぞ」
阮小五:「それは?」
秦明:「決断の速さだ。決めるだけなら、誰でもできるが、自分がこれと思った通りに決断して、後になっても悔いることがない、というふうになれば、相手を凌げる」(6巻 p.288)