『ヘヴン』【川上未映子】人間の欲求に善悪はない。問題はできるかどうかだけ


『ヘヴン』(川上未映子/講談社)

百瀬が主人公に対して説いた内容が圧巻だった。
書き留めたい言葉があり過ぎて、あちこち書き写していたら、すごい分量になった。
もう、この小説全体が、百瀬にこの語りをさせるためのお膳立てなんじゃないかと思うぐらいに、圧倒的に役者が違う。

主人公が百瀬に対して「罪悪感はないのか?」という問いかけをしても、百瀬はまったく意に介さない。
百瀬は、「正しい」「正しくない」とは何か?という議論よりも一つ上の次元から物事を俯瞰している。

人にはそれぞれ趣味嗜好があって、たまたまそれが「できる」状況が目の前にあれば、それを実行してしまう。
それは、人が定めた善悪以前に生まれたものだし、時代や国によって異なる「法」や「正義」のような曖昧なものよりもずっと、根源的で本質的な見方だと思う。

中学2年生で、この思考力や説明能力を持っているというのは、ちょっと現実離れしすぎている気はするけれども。

百瀬と比べると、コジマの価値観はずっと独りよがりだ。
人とは違ったものに特別な意味を持たせようとして、わざと自分を身汚い状態にしたり、人から疎まれることをむしろ望んでいる。
そればかりか、主人公に対しても、斜視を治せるという可能性を口に出しただけで激しく責めるというのは、かなり認知が偏っているように思う。

そして、主人公はといえば、確固たる意思も方針もなく、どこかで聞いた「正しさ」を頼みの綱にして、世界が変わってくれればいいのに、とただ願うだけの存在だ。
結局、百瀬の語った内容を理解することはなく、自分自身の意思によって世界を変えようと行動することもなく、最後まで内に籠もっていた。

百瀬が想定していたのとはまったく別の方法で自分の信念を貫こうとしたのがコジマで、そのコジマの予想外の行動を見て、百瀬は痛快に思って面白がったはずだ。
その一方で、やはり主人公については、百瀬の視点からはほとんど何の興味も湧かない対象のまま、変わらなかっただろう。

ただ、この先はわからない。
小説からわかるのは、中学生の時点までの彼らのことだけで、その後、主人公とコジマが会うことはなかったということだけだ。

主人公は、斜視が治った後、その従順な性格をもってすれば案外、社会に順応して高い収入を得ることになるかもしれない。
それに対して、百瀬やコジマは、それぞれ違った意味で社会に順応できずにドロップアウトしていく可能性もある。
平凡な精神であることが、幸か不幸かは場合による。
人生は、棺桶の蓋を閉じるまで、何が起こるかわからない。

それにしても、中学2年生で、こういう苛めはあるんだろうか。
ここまで露骨な苛めは現実にはないような気もするし、実際はこの小説以上に過酷な苛めがあるような気もする。
この年代特有の、不安定さや、無知さや、身体の成長や、残酷さや、無垢さや、そういうものがいろいろあって、何が起こっても不思議はない、混沌とした年代なんだろうということはわかる。

だからこそ、社会的な生き物としての人間の、素の部分が出るんだろうと思う。
大人になった後でも、戦争のような生きるか死ぬかの極限状態になれば、生き物としての本能の部分が優位になる。

中学生のいじめも、ナチスによるユダヤ人迫害も、自分が信じる世界観の中に他人を力任せに引きずり込もうとする点で同じだ。
そういう状況では、学校の道徳で習うような「正しさ」など何の意味ももたない。
どんな状況でも生き延びるためには、本当の強さを持たなければならない。
そんなことを考えさせられた小説だった。

名言

「…わたしたちがこのままさ、誰になにをされても誰にもなにも言わないで、このままずっと話さないで生きていくことができたら、いつかは、ほんとうの物に、なれますかね」
なんと言っていいかわからなくなり、僕は黙って床に目をやった。光がすべての窓から入り込んであふれている車両のなかで、コジマの運動靴は汚れていて暗い色をしていた。白く見える部分はどこにもなかった。
「つまり」と僕は言った。
「花瓶や机には、…本当の意味ではなれないかもしれないけれど、物のふりをすることはできるんじゃないかなと思う。つまり」
「つまり」とコジマも言った。
「僕たちは」と言いかけると、コジマがそれをさえぎった。
「わたしたちは、いまでもじゅうぶん物みたいなものなのだった」と言って、下唇をかるく噛んで笑った。
「本当の物になれなくても、いまだってじゅうぶん物みたいなものなのだもの」
そういうとコジマは髪のなかに右手を入れてゆっくりとかきまわし、じっと黙っていた。そしてじっと手さげの猫の顔を見つめていた。僕もおなじところをじっと見ていた。(p.53)

学校がないと誰にも会わないですむし見られないですむから、僕の生活は家具みたいに静かだった。誰の目にも映らないでいられることは僕に言いようのない安心をあたえてくれた。それはつかのまの平穏でしかなかったけれど、僕がここでこうしてひとりでいる限りにおいては、誰であっても僕に指一本ふれることができないというあたりまえのことが、僕にはとても心強く感じられた。もちろんそれはおなじように僕のほうからもなにかにふれることができないということだったけれど、それは仕方のないことだった。
そしてこのまま二ノ宮たちが僕のことを忘れてくれたらどんなにいいだろうかと本気で思ったりもした。(p.72)

そのころ、クラスでね、太陽のおまじないっていうのが流行ってて、太陽の光って直視すると目が見えなくなるんだけど、三十秒間瞬きしないで太陽を見ることができたら願いがひとつだけ叶うっていうそういう話なんだけど、わたしお母さんの横でね、泣きながらそれやったの。お願いします、お母さんをもどしてくださいって言いながら目をこうやって見ひらいてね、ずっと太陽を見てたの。雲もなんにもないすごく晴れた日だったから太陽が今日みたいに真っ白に光っててすごく目が痛かったの覚えてるの、それでも目が見えなくなってもいいからって、あのときはっきり思ったのも覚えてる。(p.87)

「君はさっき、…ううん、さっきじゃなくても、これまでだってずっと、蹴られても、なにをされても受け入れてる、そんな君を見てて、色々なことのかたいむすびめが解けたような、そんな気がしたの。うまく言えないんだけど、なにもかもがすうっと腑に落ちたような気がしたの。君のその方法だけが、いまの状況のなかでゆいいつの正しい、正しい方法だと思うの」(p.136)

死ぬとは、いったいどういうことなんだろう。僕は真っ暗な部屋のなかでそんなとりとめのないことをいつまでも考えていた。そしていまもこの瞬間に死んでいる人が確実にいるということを想像してみた。これはたとえ話や冗談や想定じゃなくて、本当のことなんだと、そう思ってみた。これは完璧な事実なんだと僕は思った。そして生きている以上は遅かれ早かれみんな死んでゆくし、だとしたら生きてるということは死ぬことをただ待っていることだとも言えるんじゃないか。だとしたら人は、なんのために生きているのだろう。生きている僕とはいったいなんだろう。僕はわけがわからなくなり、何度も寝がえりをうち、重い息を吐いた。そして死ぬということは眠っているのとおんなじなんじゃないかと思うようにもなった。眠っていたことはつぎの朝に目が覚めてはじめてわかることなのだ。朝が永遠にやってこなければ、その人は眠ったままなのだ。死とはそういうものなのじゃないか。(p.152)

「権利があるから、人ってなにかするわけじゃないだろ。したいからするんだよ」
百瀬はそう言うと咳ばらいをひとつして、人さし指の関節をなでるようにさわりながら言った。
「あとなんだっけ、そうだ、無意味なことをするなって君は言ったね?無意味だってことには賛成できるけど、そんなの無意味だからいいんじゃないか。無意味だから、いいんだろ。それに対して放っておいてほしいと君が感じるのはもちろん百パーセント、君の勝手だけど、まわりがそれにたいしてどう応えるかも百パーセントまわりの勝手だ。ここんとこはなかなか一致しないもんだよ。君が世界に望む態度で世界が君に接してくれないからって世界にたいして文句は言えないだろう?そうだろ?つまりいまのことで言えば、なにかを期待して話すのは君の勝手だけど、僕がなにを考えてどういう行動にでるのかについては君は原則的にかかわることはできないってことだ。それとこれとはべつの話ってことだよ」
僕は百瀬の言ったことを頭のなかで繰りかえしながら、百瀬の手のあたりを見ていた。
「それに」と百瀬はつづけて言った。
「ちょっと気になったんだけどさ、君、さっきから君の目がどうとか言ってるけど、君の目が斜視だからとか、そんなのさ、べつに関係ないんだよ」
僕は百瀬のその言葉に全身がかたくなった。
斜視であることが関係がない?のどのあたりで鼓動がきこえはじめ、耳の奥がじんじん収縮しているのがわかった。僕は何度も唇を舐め、息を吐いて息を吸い、しぼるように声をだした。
「それは、…どういう、意味で」
百瀬は僕の声をきいて面白そうに笑った。
「だからさ、君はなんか誤解してるみたいなんだけど、まあ、君は苛められてるよね、クラスでさ。まあ僕にとってはべつになにも楽しくないし、なんだったかまわないんだけど、まあクラスのほとんどの生徒が君をからかい、君をおとしめて、蹴ったり殴ったりしている。君が言うとおりそれは日常的に行われてる。それは認める。そして君がロンパリなのも、君のことをロンパリと呼んでいるのも知ってる。でもさ、そういうのってたまたまのことであって、基本的なところでは君が斜視であるとかそういったことは関係ないんだよ。君の目が斜視っていうのは、君が苛めを受けてる決定的な要因じゃないんだよ」(p.166)

「意味なんてなにもないよ。みんなただ、したいことをやってるだけなんじゃないの、たぶん。まず彼らの欲求がある。その欲求が生まれた時点では良いも悪いもない。そして彼らにはその欲求を満たすだけの状況がたまたまあった。君をふくめてね。それで、彼らはその欲求を満たすために、気ままにそれを遂行してるってだけの話だよ。君だってさ、やりたいことってなにかあるだろう?で、できることならそれをやってるだろう?基本的に働いてる原理としてはだいたい同じだよ」(p.170)

「なあ、世界はさ、なんて言うかな、ひとつじゃないんだよ。みんながおなじように理解できるような、そんな都合のいいひとつの世界なんて、どこにもないんだよ。そういうふうに見えるときもあるけど、それはただそんなふうに見えるというだけのことだ。みんな決定的に違う世界に生きてるんだよ。最初から最後まで。あとはそれの組み合わせでしかない」
「それは君の」と言いかけた僕の言葉をまたさえぎって百瀬はつづけた。
「その組みあわせのなかでさ、僕たちの側で起こってることと、君の側で起こってることは一見つながってるように見えるけど、まったく関係のないことでもあるんだってことだよ。そうだろ?たとえば君はさっきまで君の目が原因で苛めを受けてると思っていた。でもそんなのは僕にとってはまるで関係がないことだった。君が受けている眠れないくらいの苛めは、僕にとってはなんでもないことだ。良心の呵責みたいなものなんてこれっぽっちもない。なんにも思わない。僕にとっては苛めですらないんだよ。僕と君に限ったことじゃなくて、考えてみればみんなそうじゃないか。思い通りにいかないことしかないじゃないか。自分が思うことと世界のあいだにはそもそも関係がないんだよ。それぞれの価値観のなかにお互いで引きずりこみあって、それぞれがそれぞれで完結してるだけなんだよ」咳ばらいをひとつして、百瀬はつづけた。
「だから、君の言葉で言うところの苛めを君が受けたくなんだったら、僕たちを、というか二ノ宮を、まあどうにかするしかないよね。さっきも言ったけど、僕は楽しくもなんともないよ。面白いともなんとも思わない。でも、なぜかそういうめぐりあわせのなかにあって、僕がたまたまアイデアをだしたり、まあそういうことができてるってだけの話なんだよ。君とここでこんなふうに話してるのもそういうことだ」(p.172)

「だからさ、芸術でも戦争でもなんでもおなじなんだよ。あれがおいしいとかどれが美しいとか、これこそが真理だとかこれは偽物だとか、どこ見たってそんなことばっかり言いあってるだろ。飽きもせずそんなことばっかりやってるだろ。ただ黙ってるってことができないんだよ。生きてるってことはそういうことだよ。腹を立てたり喜んだりしながらもけっきょく、そういうのを楽しんでるんだよ」
そういうと百瀬は肩をすくめて首のうしろをのばした。
「僕がときどきおそろしいと思うのはね、そこにある欲求だよ」と百瀬は言った。
「つまり生きてることさ。生きてる自分からは誰も自分を守ってくれないからね」(p.173)

「…もし君の、家族が僕とおなじような目に遭ってたら、君だって、…苦しいはずだ」
「そりゃ苦しいさ」と百瀬は意外な顔をして言った。
「まったく君は僕をなんだと思ってるんだよ。君が知ってるかどうか知らないけれど、僕にはすごくかわいい妹がいるんだぜ。ぜったいそんな目には遭わせないね」
「だったらなんで自分や身内がされたら耐えられないようなことを、他人にはできるんだよ」
「そのふたつにはまったく関係がないだろう?妹にはされたくないことを他人にしちゃいけないって、それ、なんで」
百瀬は目をまるく見ひらいて僕の顔をじっと見た。
「自分がされたらいやなことからは、自分で身を守ればいいんじゃないか。単純なことじゃないか。ほんとはわかってるんだろうけどさ、『自分たちがされたらいやなことは、他人にはしてはいけません』っていうのはあれ、インチキだよ。嘘に決まってるじゃないか、あんなの。ああいうのは自分でものを考えることも切りひらくこともできない、能力もちからもない程度の低いやつらの言いわけにすぎないんだよ」(p.175)

「誰だって自分の都合でものを考えて、自分に都合よくふるまってるだけなんだよ。みんながそれぞれ自分の都合を邪魔されたくないために、そういう嘘をまき散らしてるだけなんだよ。そうだろ?自分がされたらいやなことなんてみんな平気でやってるじゃないか。肉食は草食を食うし、学校なんてのは人間のある期間における能力の優劣をはっきりさせるためのものだし、いつだって強いものは弱いものを叩くんだ。きれいごとをあるだけあつめて都合のいいルールをならべてそのなかで安心してるやつらも、その事実からは逃れることはできない」
(中略)
「地獄があるとしたらここだし、天国があるとしたらそれもここだよ。ここがすべてだ。そんなことにはなんの意味もない。そして僕はそれが楽しくて仕方がない」
(p.176)

「もし、…僕が」と僕は混乱した頭の中身を逃すようにして、少しずつ息を吐きながらそう言った。
「僕が君を、殺すと言ったら」
「殺せるんなら、殺せばいいさ」と百瀬はすかさず言った。
「できることはできることだろ。したいことをすればいいさ。誰も君を止める、--それこそ権利みたいなものは持っていないさ。でも問題はさ、そんなたとえ話じゃなくってさ、なぜ君は殺す動機とかタイミングがじゅうぶんあるのに、いま現在僕たちのなかの誰か、僕でもいいけれど、そいつを殺していないのかってことだろ?」
(中略)
「君はどうしてそれをしたくないんだ?できないんだ?問題はそこだ。どうして君は僕たちを包丁かなにかで刺してまわらないんだ?やってみると状況もあんがい変わるかもしれないのに、なんで君にはそれができないんだと思う?捕まるのがこわいか?でもいまなら犯罪にはならないんだぜ?」
(中略)
「人には、できることとできないこと、したいこととしたくないことがあって、まあ趣味があるってことなんだよ。できることはできてしまうという、ただそれだけのシンプルな話しだよ」
百瀬はそう言うと口のなかであくびをかみ殺した。
「でもそれも、全部たまたまのことだ。僕たちはいま、たまたまそれができる。君はいまたまたま、それができない。それだけのことだよ。半年後はわからない。来年はもっとわからない」(p.178)

「その目は、君のいちばん大事な部分なんだよ。ほかの誰でもない君の、本当に君をかたちづくっている大事な大事なことじゃない。わたしには、なんにもないから、わたしはこうやってしるしをつくるしかなかったけれど、君には生まれもったしるしがあって、だからわたしたちはこうやって会えたのに、どうして君はそれをなくすなんて、そんなこと言えるの?君にとってわたしたちが出会えたことは大事なことじゃなかったの?」(p.197)

コジマの隣にいながら、僕の身体はまだ自分の部屋で眠っているような気がした。指を動かせばきちんと動いたけれど、そこにはなにかが決定的に足りないようなそんな感覚が残った。何度かかたく目をつむってまばたきを繰りかえして、額の奥をはっきりさせようとしたけれど、軽いのか重いのか、それすらもわからない綿のようなものが頭のすきまというすきまにつめこまれているような鈍さがあった。僕は、僕と僕以外のものとの距離感がうまく理解できなかった。そこに距離があるのかどうかも、わからなかった。夢を見てるみたいだと僕は思った。まるで僕自身が僕の目になったような、そんな感じがした。(p.218)

石の半分は黒く湿っていて、それは僕に血を連想させた。黒い部分には尖っているかどがあった。僕はその乾いた部分を持ち、尖った部分をじっと見つめていた。
病院のベンチの、あの暗い陰のなかで、百瀬が僕にむかって言ったことを思いだしていた。なぜ、君はそれができないんだ?なぜ、僕はそれができないんだ?やってみれば、なにか状況が変わるかもしれないじゃないか。そうかもしれなかった。罪悪感はないのか?今度は僕が百瀬にきいていた。ないね。まったくないよ。百瀬は当然のように答えていた。できることは、たまたまそれができるってだけのことさ、それ以上でもそれ以下でもない。なんにも意味はない。意味はない?百瀬は目もとだけで僕にほほえんでいた。あのね、正しいも間違ってるも、そんなものはない。ただそれぞれの都合があるだけだ。その都合と解釈のなかに、どれだけ他人を引きずりこむことができるか、圧倒的に、有無をいわさず、自分の枠のなかに取りこむことができるか、けっきょくはそれだけのことじゃないか。僕は引きずりこみたくもないし、引きずりこまれたくもないんだよ。僕は百瀬にむかって叫んだ。君、そんなの無理にきまってるじゃないか、百瀬は笑った。僕が言ってるのはこの世界のルールについてだよ。理想でもなんでもない。すでに設定されて十全に機能している単純なシステムの話をしてるんだよ。だからその手に持っている石で、やりたかったら二ノ宮の頭を殴ればいいんだよ。いまだったら油断してるだろうから、思いっきり頭にぶつけたらとりあえず倒れるだろう。それからそのすきに起きあがれなくなるまで頭に打ちつけてやればいいじゃないか。すっきりするし、コジマも守れる。まわりの連中はそんなことになったらあっというまに逃げだすさ。もちろん僕も逃げるよ。でもまあ、この状況ならなにをしたって君が責められることはないんじゃないのか?かえって同情されるんじゃないのか?やってみればいいじゃないか。君はなんでそれができないんだ?なんで、それができないんだ?(p.229)

いま僕にするべきことがあるのだとしたら、それは戦うことなのじゃないか。この石を持っていま二ノ宮にむかわなければならないのじゃないか。そうするべきなんじゃないか。僕の手には石がある。このままではなにも変わらないじゃないか。おまえはいやというほどそのことを知ってるはずじゃないか。僕は石を両手に持ちかえて、ちからをこめた。
そのとき、コジマがゆっくりと立ちあがって、僕の腕をとった。
僕はコジマの顔を見た。
コジマはなにも言わずに僕の顔を眺めていた。髪からは雨がしたたり落ち、眉毛にも雨が光っているのが見えた。コジマは僕の腕から手をそっと離した。僕は口がきけなかった。僕はコジマの顔を見た。そしてそのとき、僕はこれまでにいったいどれくらいたくさんの視線にさらされてきたのかを思い知った。避けようとする視線があり、嫌悪の視線があり、嘲笑の視線があった。まったく知らない相手から、僕は物心ついたときからそんな視線を投げられ、それを受け止めるしかなかった。けれども、ほんの少しだけれども、やさしい視線もあった。僕の目をすきだと言ってくれて、見つめてくれた視線があった。手をにぎり、まっすぐに僕を見てくれる視線があった。僕はこのとき、そのことを思い知った。けれどいま僕の目のまえにいるコジマの目にはもうどんな感情もこめられてはいなかった。なにも見ていないコジマの目を見て、僕はそのことを思い知ったのだった。(p.231)

それは悲しみのせいで流れた涙ではなかった。それはたぶん、こうして僕たちはゆく場所もなく、僕たちがこのようにしてひとつの世界を生きることしかできないということにたいする涙だった。ここ以外に僕たちに選べる世界なんてどこにもなかったという事実にたいする涙だった。ここにあるなにもかもに、ここにあるこのすべてにたいする涙だった。僕はコジマの名前を呼びつづけた。しばらくして人がやってきた。毛布をかけられて大人たちに抱えられて去ってしまうまで、コジマも僕を見ていた。それが僕が見た最後のコジマの姿になった。
コジマはたったひとりの、僕の大切な友達だったのだ。(p.237)

そこに映るものはなにもかもが美しかった。僕は泣きながらその美しさのなかに立ちつくし、そしてどこにも立っていなかった。音をたてて涙はこぼれつづけていた。映るものはなにもかもが美しかった。しかしそれはただの美しさだった。誰に伝えることも、誰に知ってもらうこともできない、それはただの美しさだった。(p.248)

追伸

百瀬の、主人公への語りを見て、『少女ファイト』のこの場面を思い出した。こんなに好意的で熱い言い方ではないけれど、核心は百瀬の精神と同じ。