生きるということ(エーリッヒ・フロム/紀伊國屋書店)
原題は「To have or to be?」で、こちらのタイトルではストレートに表現されているように、「持つ」ことと「ある」ことの違いを、日常生活のあらゆる場面を取り上げて、詳しく説明した本。
この本での分析はとても細かく、日常生活のあらゆる場面について言及されていて、それは車や家のような、目に見える物や金のこともあれば、信頼や知識のような、目に見えないものにも及んでいる。
この、「持つか、あるか」という観点で見ると、今、世の中に出ている価値観のほとんどは「持つ」ことが善という暗黙の了解を大前提にして成り立っていることばかりだ。しかし著者は、理想的な生き方とは、「持つ」ことを重視する生活ではなく、「ある」ことと重視する生活にあると主張している。
最近読んだ本で、圧倒的な感銘を受けた本はどれも、「持つ」ことではなく、「ある」ことの重要さを示唆しているような気がする。
そういう気がするのは、今、自分の中のアンテナがそっちの方向を向いていて、それに関係したものを拾いやすくなっているからなのかも知れない。
現代社会の「持つ」ことへの偏重に対して、後半でフロム氏が示している解決策は、理想主義すぎて、現実の見込みはほとんどなさそうに思える。筆者自身もそれは認識していて、この解決は非常に難しく、達成の見込みはほとんどないと述べながらも、「しかし、不可能ではない」と締めくくっている。
社会全体としての変革は、確かに難しいことと思うけれど、この本に書かれていることは、個人として物事を考えるにあたって、非常に役立つ知恵だと思う。
【名言】
私たちが行っているのは今までになされた最大の社会的実験であって、それは快楽が人間存在の問題に対する満足すべき解答となりうるか、という問いに答えるための実験なのである。歴史上初めて、快楽動因の満足が少数者の特権にとどまらず、人口の半分以上にとって可能となっているのだ。この実験はすでにその問いに対して否定的に答えている。(p.21)
クリュソストモス(四世紀)の警告「私は私のものを使うと言ってはならない。あなたはあなたと無縁のものを使うのだ。気ままで利己的な使用は、あなたのものをあなたと無縁の何ものかにしてしまう。それゆえにこそ私はそれを無縁のものと呼ぶのだ。」(p.89)
死ぬことの恐れを真に克服するには、ただ一つの方法しかなく、その方法は、生命に執着しないこと、生命を所有として経験しないこと、によるものである。死ぬことの恐れは、生きることをやめることの恐れのように見えるが、実はそうではない。死は私たちにかかわりはない、とエピクロスは言った。「なぜなら、私たちがいる間は死はまだ来ていないし、死が来た時には私たちはいないのだから」。(中略)いかに死ぬべきかの教えは、実際いかに生きるべきかの教えと同じである。あらゆる形の所有への渇望、とくに自我の束縛を捨てれば捨てるほど、死ぬことの恐れは強さを減じる。失うものは何もないからである。(p.174)
機械を通じて、時は私たちの支配者となった。自由時間にのみ、或る選択ができるように見える。しかし、私たちはたいてい、仕事を組織化するように、余暇をも組織化する。あるいは、完全になまけることによって、時の専制君主に反抗する。(p.178)
エンゲルスがマルクスの死後に述べることとなったように、彼らはまったく間違っていた。彼らは資本主義の発達の絶頂において彼らの新しい教えを宣言したのであって、資本主義の衰退と究極的な危機が始まるためには、さらに百年を要することを予知しなかった。歴史的必然としては、資本主義の最盛期に広められた反資本主義思想が成功を収めるためには、それは資本主義精神へ完全に変貌しなければならなかった。そしてこれが実際に起こったことであった。(p.212)