こんな日本でよかったね(内田樹/バジリコ)
この本の記事は、その多くが、著者自身のブログの記事から抜き出して組み立てたものということで、力を抜いた感じで、気軽に書かれている章も多い。しかしそれでも、その内容の濃さには感心する。こういう、しっかりと中身のある文章を、さらりと書けるというのは、すごい裾野の広さなのだと思う。
記事の日付は、今年のものから4年以上のものまでまちまちなので、時事的な話題については、もうだいぶ昔の内容もあるけれど、その視点がとても本質的なので、今読んでもまったく意味が薄れていない。
本の中に、
『「梅の香りが・・」という主語の次のリストに「する」という動詞しか書かれていない話者と、「薫ずる」、「聞こえる」という動詞を含んだリストが続く話者では、そのあとに展開する文脈の多様性に有意な差が出る。(p.46)』
という記述があったのだけれど、著者の文章というのは、この、文脈の多様性という点で、本当に豊かな世界を持っていると感じさせる。
読みやすく書かれていながら、その内容はとても論理的で、個性的でもある。抽象的な事柄を、的確な言葉でわかりやすくまとめて取り出して見せてもらうたび、「そういうことだったのか!」と、突然世界が開けたような感動をおぼえる部分がいくつもあった。
【名言】
人間が語るときにその中で語っているのは他者であり、人間が何かをしているとき、その行動を律しているのは主体性ではなく構造である、というのが本書の主な主張であります。(p.5)
自分の使っている言葉が「母語の自然で規範的なかたちである」という自信が持てないという事実は想像以上に重いものである。
母語運用能力というのは、平たく言えば、ひとつの語を口にするたびに、それに続くことのできる語の膨大なリストが出現し、その中の最適な一つを選んだ瞬間に、それに続くべき語の膨大なリストが出現する・・というプロセスにおける「リストの長さ」と「分岐点の細かさ」のことである。
「梅の香りが・・」という主語の次のリストに「する」という動詞しか書かれていない話者と、「薫ずる」、「聞こえる」という動詞を含んだリストが続く話者では、そのあとに展開する文脈の多様性に有意な差が出る。(p.46)
どうして男が「交換の主体」であり、女が「交換の対象」であるかというと、答えは簡単。男それ自体には交換物としての価値がないからである。
男は再生産しない。
再生産のためには女100人あたり、男1人いれば十分である。99%の男には生物学的には価値がない。(p.58)
人類の祖先たちがはじめて稲作を始めたときも、誰かが既成の「正しさの基準」に基づいて、「今日からわれわれは稲作というものを行うことにした、文句のあるやつは死刑」というようなことをいったわけではない。
なんとなく、ずるずると始まったのである。
そのとき、「いや、われわれはキューリを主食にするべきだ」というような主張をした弥生人もいたかもしれない。
「南瓜がいいんでねーの」という人もいたかもしれない。
こういうことの適否を決定できる上位審級は当然ながら稲作文化の定着以前には存在しない。しかし、そのうちに、誰が命令するでもなく「みんな稲作」になった。
投資する手間と回収できる利益のコスト・パフォーマンスを考量しているうちに、「ま、米だわな」ということになったのである。
私はこのような「長いスパン(百年単位)で考えたときの人間の適否判断能力」についてはかなりの信頼を置いている。(p.106)
自分らしい生き方を断固として貫き、あらゆる干渉をはねつける原子化した個人のアキレス腱は、共同体を作れないことである。
というのは、共同体を作るというのは要するに不愉快な隣人の存在に耐えることだからである。何が悲しくてそのような苦役に耐えねばならぬのか。原子化した個人にはその理由がわからない。
仮に配偶者を求めたとしても、それはあくまで実利を求めてのことである。
高学歴で、高年収で、センスがよくて、社交的で、見栄えのする配偶者を持つことは、その人の社会的能力の高さを外形的に表示するための、きわめて効果的な方法の一つである。(p.118)
人生はミスマッチである。
私たちは学校の選択を間違え、就職先を間違え、配偶者の選択を間違う。
それでもけっこう幸せに生きることができる。(p.153)
対立の場にねじこまれた生身の身体によって、対立の当事者たちはそれぞれ半歩退き、そこに一時的な「ノーマンズ・ランド」(非武装中立地帯)のようなものができる。これがソリューションとして有効なのは、それは当事者も仲裁者も誰もこの解決から利益を得ないからである。
これは「正しいソリューション」ではなく、「誰にとっても同じ程度に正しくないソリューション」である。
だが、実際に組織で長く働いてこられた方は経験的によくおわかりだろうけれど、そこから利益を得る人が誰もいないというソリューションはしばしば合意形成のための捷径である。
最近よく「ウィン=ウィン」という戦略が外交の場で口にされるが、こういう言葉はすぐに一人歩きするから注意が必要である。実は、いちばん合意形成にもってゆきやすいのは「ルーズ=ルーズ」ソリューションなのである。(p.160)
コミュニケーション感度の向上を妨げる要因は、「こだわり・プライド・被害妄想」であるので、「こだわらない・よく笑う・いじけない」という構えを私は高く評価する。(p.181)
たしかに、世界中どこにいっても人間のありようが標準化・規格化されると、生きる上ではいろいろな便益があるだろう。世界中どこでも乾電池やカセットテープの規格が同じであるように、万人が同じ言葉をしゃべり、同じロジックを用い、同じものを欲望し、同じものを忌避するとしたら、たしかにコミュニケーションは容易になるだろうし、マーケットの品揃えも楽になるだろう。
けれども、そのような世界は固体の生存にとっても種の生存にとってもきわめて不利な世界だということを忘れてはいけない。
固体レベルで言えば、それは「いくらでもあなたの代替物がいる」ということだからである。(p.193)
自分の手で未来を切り開けるということはない。
どれほど才能があって、どれほど努力をしても、それがまったく結実しないと嘆く人間がいる一方で、まるで才能もなく、ろくに努力もしていないけれども、どうも「いいこと続き」で困ったもんだとげらげら笑っている人間がいる。
その差は、自分の将来の「こうなったらいいな状態」について「どれだけ多くの可能性」を列挙できたか、その数に比例する。
当然ながら、100種類の願望を抱いていた人間は、1種類の願望しか抱いていない人間よりも、「願望達成比率」が100倍高い。(p.208)