神話の力

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神話の力(ジョーゼフ・キャンベル/早川書房)

神話には、人生を豊かにするための叡智が散りばめられているのだということを、この本から学んだ。
神話というのは、娯楽のためにあるものではなく、人間の成長にとって、とても重要なことを隠喩(メタファー)の形で伝えるために存在しているのだと、著者のジョーゼフ・キャンベルは語っている。
たとえ民族や時代が異なっても、あらゆる神話には、多くの共通点が見られるという。それは人類が共通して持つ、根源的な部分に訴えかけるものだからなのだろう。
今の現代生活では、昔の時代に比べると、神話に接する機会はかなり少なくなっている。ニュースや新聞で、世界で起こっている最新の出来事については、詳しくその情報を入手出来るようになっているけれども、その代わりに、代々受け継がれてきたような人類の英知に接する時間は少なくなってしまっているということだ。
神話は、人間の成長にとって本質的に必要不可欠なものなので、人は無意識のうちに、何らかの物語を探そうとする。栗本薫氏は、「わが心のフラッシュマン」の中で、人間には誰にでも物語欲がある、と言っていたけれども、それは人が生きていくための本能のようなものなのだと思う。
今ではすっかり姿を消してしまったけれど、人が集まる所にはどこでも、子供から大人になるための通過儀礼(イニシエーション)が社会の中の仕組みとして用意されていた。いまや、日本の成人式などを見ても、それはほんの形式的なものになっているけれども、本来、そういう儀礼をおこなうというのは、子供から大人への変化を意識的に区別して、きちんと成人するために必要なものだったのだ。
今、学校でいじめがあったり、部活や暴走族の中に厳密な上下関係や掟があったりするのも、昔からあったイニシエーションの代わりの機能として、必然的に生み出されたものなのかも知れないという気がする。
そして、そういうイニシエーションへの予習をおこなうために、神話というものがあったのだけれども、現代では、優れた小説や映画が、神話の代わりを果たしているだろうと思う。「スターウォーズ」が、旅立ち→試練→帰還、という神話の基本構造に忠実に作られているというのはよく知られた話しだけれども、優れた小説や映画にはやはりどれにも、神話と共通する物語性がある。
日々の新聞を読むことよりも優先して、まず、神話というものをきちんと知ろうと思った。


【名言】
現代の問題のひとつは、人々が精神ないし霊魂について書いたものにあまりよく通じてないことです。私たちはきょうのニュースに、いまこの時間の問題に興味を持ちます。私たちが年をとり、目先の諸問題は全部だれかが引き受けてくれるというので、ようやく内面生活に目を向けようとするその時、内なる生はどこにあるのか、どんなものか、わからないとすればみじめでしょうね。(p.30)
語られざる神話、と言っていいかもしれません。フォークとナイフはこんな具合に使う、人々にはこんなふうに対応する、などといったことは、全部本に書いてあるわけじゃありません。ところが、アメリカには非常に多様な背景を持った人々がいて、それがひとつの群れをなして一緒に暮らしている。だからこの国では法律がきわめて重要なものになっているのです。そこにエトスはありません。(p.40)
意識をなにか頭特有のものと考える、頭脳が意識を生む器官であるかのように考えるのはデカルト的思考の一部ですが、それは事実に反します。私はなぜか、意識とエネルギーは同じものだと感じています。ほんとうに生命エネルギーのあるところには意識がある。植物の世界には確実に意識があります。ある種の食べ物を摂取すると、胆汁はそこに自分の働き場所があるかどうかを知る。そうした作用のすべてが意識です。(p.50)
現代は境界線がありません。今日価値を持つ唯一の神話は地球というこの惑星の神話ですが、私たちはまだそういう神話を持っていない。私の知るかぎり、全地球的神話にいちばん近いのは仏教でして、これは、万物には仏性があると見ています。重要な唯一の問題はそれを認識することです。まず行動を、というのでは決してありません。大事なのはただ、在るものを在るがままに知ること。(p.63)
神話が負っている主要な課題のひとつは、あらゆる生の冷酷な前提条件と知性とに折り合いをつけることです。生きとし生けるものはすべて他の生命を殺して食べなければならない、という冷厳な事実がありますね。私は野菜だけしか食べないといって自分をごまかしてはいけません。野菜だって生き物なのです。だから、生命の基本は生命そのものを食べているというこの事実です。生命は生き物を食うことによって成り立つ。そして、人間の知性や感性をそういう根本的な事実と和解させることは、主として殺戮からなる非常に野蛮な儀式の機能の一つです。知性を生存の条件と和解させることは、あらゆる創造神話にとって基本的な不可欠なことです。どれもその点ではよく似ています。(p.93)
創造的な本を書く人ならば、自分の心を開いて受け身になると、本が自分に語って、それ自身を作っていくことを知っています。ある程度まで自分は、ミューズと呼ばれてきたものから、あるいは聖書の言葉を借りれば「神」から、与えられたものを運ぶ役を果たしているのです(p.117)
クモが美しい巣を作るとき、その美はクモの本性から来ています。それは本能的な美です。私たち自身の生活の美は、生きていること自体の美しさにどの程度かかわっているのだろうか。それはどの程度まで意識的、意図的なんだろう。これは大きな問題です。(p.153)
他者の危機あるいは苦痛を目前にしたとき、人間が即座に、すべてを忘れて、その人のために自分の命を投げ出すことができるのはなぜだろう。ショーペンハウエルの答えはこうです。このような心理的危機は、ある形而上学的な認識、すなわち、私と他者とは一体である、私と他者とはひとつの生命の二つの外見であって、別々に見えるのは、空間と時間の条件下でしか形を経験できないという知能の限界の反映に過ぎない、という認識が飛び出してきた結果なのだ。(p.202)
英雄は指導者とはどう違うか、というのはトルストイが「戦争と平和」のなかで扱った問題です。ヨーロッパを荒らしまわり、いまやロシアに侵入しようとしているナポレオンがいる。そこでトルストイは疑問を提出します。ナポレオンは真の指導者なのか、それとも、単にひとつの波に乗った男にすぎないのか。心理学の立場から言えば、指導者とは、何を成し遂げられるかを見抜いて、それを実行した人間と言えるかもしれません。(p.224)
科学と神話とは矛盾しません。科学はいまや神秘の次元に突入しています。みずからを押し進めて、神話が語る世界に入り込んだのです。科学は剣の刃のような、ぎりぎりの縁まできている。(p.235)
神話は詩です、隠喩ですよ。神話は究極の真理の一歩手前にあるとよく言われますが、うまい表現だと思います。究極のものは言葉にはできない。だから一歩手前なんです。(p.292)
家庭生活の中では、たとえ本人どうしが決めたのではない結婚の場合でも、夫婦のあいだに愛情が芽生えるという事実を認めなくてはならない。言い換えれば、この種のアレンジされた結婚にも愛はいっぱいあるということです。家族愛というものがある。そのレベルでは豊かな愛がある。しかし、その場合にはもう一つのものは得られない。自分の魂の片割れが相手のなかにあるのを認めた結果生まれてくる強烈な感情。吟遊詩人たちはまさしくそれを守るために立ち上がり、それが今日の私たちの理想になったのです。(p.352)
愛は道徳を破ります。愛が自己表現をするからには、社会的に認められた生活習慣に合わせた表現をするわけがない。だからこそ、愛の表現はすべて深い秘密なのです。愛は社会秩序とは無関係です。それは社会的に整えられた結婚の経験よりも、崇高な精神的経験です。(p.357)
言葉はいつも限定であり、制約です。しがない私たち人間に残されているのは、このみじめったらしい言語だけです。それは美しいけれども不十分なものだから、なにかを表現しようと思っても・・。(p.402)