赤い長靴


赤い長靴(江國香織/文藝春秋)

とても変わった、しかし面白い小説だった。
40歳を迎えて、子供はなく、二人で生活をしている夫婦の物語で、主に妻である日和子の視点から語られる。
最も近しい存在でありながら、宇宙人のように遠い隔たりを感じてしまう、夫、逍三に対する、もどかしくも愛しいという奇妙な感情がテーマ。
仲が良くなかったりケンカをしているわけではなく、何がどう悪いということではなく、ただ、コミュニケーションがしっくりといかない。
切なく、空虚な感じがありながら、しかしはっきりとした不幸があるというわけでもない。
現実には、ここまで噛み合わない会話というのはなかなか無いかもしれないけれど、これと同じような状況というのは実際によくあると思うし、多かれ少なかれ似た部分は、ある程度以上に距離が近くなれば誰と誰との関係の中にも必ず潜んでいるものなのだと思う。
そこから浮かび上がるのは、「人と人とは、わかりあえない」というシビアな寂しさなのだけれど、それでもなお、互いを大事に思うことが出来るというのは大きな救いだと思った。
ほとんどの部分は、日和子からの視点なのだけれど、時々、語り手が入れ替わって、逍三からの視点になるところが面白い。
妻の目から見れば、なんと奇妙な夫だろうと思えるのに、逆に夫の立場に立って見ると、その行動にもそれなりの理由があり、それほど奇妙でもないように思えてくる。
ただ視点が異なるというだけで、同じ出来事がこんなにも違った意味を持つという、その当たり前のことの面白さに気付かされた小説だった。
【名言】
忽然と、ほんとうに忽然と日和子は理解する。逍ちゃんのいるときよりいないときの方が、私は逍ちゃんを好きみたいだ。
それは発見だった。自分でも信じ難い、そして、露ほども疑う余地のない--。その発見に日和子はざっくり打ちのめされ、でもどういうわけか、納得がいった。(p.76)
不満を託つことをたのしんでいる自分を、日和子は発見する。やっぱり、本物の逍ちゃんがいると、このマンションは俄然賑やかになる。逍三は喋らないのに、逍三の存在そのものが、静けさを著しくかき乱すのだ。
不協和音。それは、でも、単調な和音とくらべて、どんなに魅力的だろう。(p.83)
「いけしゃあしゃあと」
その言語は、歌うような節をつけて日和子の口から転がりでた。
「はい?」
なんでもないわ、とこたえて、日和子は祐一をまっすぐに見た。たった十五、六しか違わないのに、目の前に立っている男とのあいだに、百年も隔たりがあるように思えた。
ほんとうのことは言ってはいけないのだ、という真実を、いつかこの人も知るだろうか。(p.119)
「逍ちゃんって、可笑しいのね」
くすくす笑いながら、日和子は自分が、またしても心底驚いていることに驚く。自分は逍三に、いつまでたっても慣れることがない。それは愉快なことに思えた。愉快で幸福な、かなしくて身軽なことに。(p.260)