海市

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海市(福永武彦/新潮社)

かなり、素晴らしい本だった。40歳の、あまりさえない画家が主人公であるにもかかわらず、この小説には、はっきりと青春が描かれていると思った。
ヒロインの安見子(やすみこ)という人物が、ものすごく魅力的だったことがあって、読んでいる最中はひたすら先が気になる。「海市」というのは海の上に見える蜃気楼のことであるらしく、それと似たつかみどころのない面が安見子にはあり、それがこの上なくミステリアスな魅力となって、読んでいる自分まで翻弄される感じがした。
構成として面白かったのは、言葉を発している人物の名前が表されず、ただ「彼」「彼女」としか記していない2人の人物の会話で成り立っている章が時々挟まれていて、そのため章の出だしの部分では、一体誰が話している内容なのか、さっぱりわからないという作りだ。
しかし、読み進むうちにこれが誰と誰との会話なのかが自然にわかるようになっている。一種の謎解きのような仕掛けで、会話の内容によって徐々に人物の正体がわかってくるという面白さがあった。
過剰な盛り上げ方も伏線もないし、現実離れしたほどのドラマチックな場面もない。ただ、やはりこの小説に描かれているような出来事というのは、人生において時々起こるのだろうなあと思わせる。
主人公の太吉が、「生きていることってのはいいものなんだなあ」とつぶやくシーンがあるのだけれど、その、彼が思わず口に出したつぶやきに、読みながらとても共感してしまった。
優れた小説というのは、登場人物が自分の代わりに生きているような錯覚を覚えて、その人生を追体験出来るものだと思う。この「海市」という作品は、まさにそういう種類の小説だった。

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