村上龍の小説は、フィクションを語る時のリアリティーがすごい。本当のことではないとわかっていても、ついそれを信じてしまうような真実味が、登場人物が語るセリフの中に含まれている。
内容的には大したことを言っているわけではなかったとしても、それがあたかも重大な秘密であるかのように、もったいぶった言い回しをさせることにおいて、村上龍の文章は名人芸だと思う。
場所が、世界中のあちこちの国へと、どんどん変わっていくのが面白い。
どのエピソードも、凝った料理と、それにちなんだ舞台と、それを引き立たせる会話、というシンプルな三つの要素から成り立っていて、そこには、普段の生活とは壁一枚隔てたところにあるような、非日常の空気がある。
登場する料理は、今までに見たことも聞いたこともないような、珍味や高級料理ばかりなので、味については想像するしかない。
一冊の中に32ものエピソードが収められているので、いずれの話しも短い。上手いと思うのは、各エピソードのまとめとなる、最後の一行だ。
そこがおそらく、最も工夫を凝らしているであろう部分で、表現の方法としてかなり学ぶところが大きい。
【名言】
「これだよ」と、男は言って、白子を口に入れた。オレも食った。いつものことだが許されないものを口に入れてる気分になる。罪そのものを食っている感じだ。そして罪を食うとオレ達は元気になる。(p.32)
太陽の下で、テニスやフットボールを観ながら食べる時、ホットドックはほとんど他の何にもかえがたい食べものに変わってしまう。食べている時にそう感じるわけではない。太陽とスポーツから離れている時に、幸福感の象徴としてその味がよみがえるのである。それも脳や舌や胃にではなく、全身によみがえる。(p.65)
「腹が減れば何でもうまいとよく言うが、あれは違う」
鹿肉の生ハムを食べながら作曲家はそう言った。
「飢えて食うアンパンと、この生ハムはまったく違うんだ、このダイニングの料理は、罪だな、許されないものだ、差別で成立している」
私もそう思った。
コート・ダ・ジュールの夜はなまめかしい。太陽が沈んで夜になるのではなく、夜という生きものが空気を包みこんでしまうようだ。
ルネッサンス様式の庭園からガラス窓を伝って私達のからだに、愛する女の汗のように夜は染み込んでくる。
「禁じられていることだけに、快楽は潜んでいるんだって当たり前のことがよくわかるな、ここの料理を食べると」
作曲家は白身魚のビスクソースを味わいながらそう言った。(p.73)
「どうしてこの店だけにうまいストーン・クラブがあるのかわかるかい?フロリダ沖で採れる良質のストーン・クラブには限りがあるからさ、この店が全部買ってしまうんだ、それとね、教えてあげよう、フロリダのような亜熱帯のリゾートではカンパリは合わない、カンパリはやはりサンレモやモナコといった乾いたリゾートの飲みものだ、ここじゃジンだよ、それもゴードンやビーフィーターじゃだめだ、植民地支配の天才イギリスに習って、ボンベイ・ジンを飲むんだよ」(p.138)
「ところで、君は幾つだ?」
「三十五歳になります」
「そうか、ならわかるだろう、失われてしまって決して戻って来ないものがこの世にはいろいろある、それを生理的にわかるようになるのは君の歳くらいからだ、そしてわたしくらいになるとそのことのあまりの大きさに、その恐怖感にガク然となるものだ」(p.175)
私達は、声高に、そのレストランそのものを、まずい料理やウエイターの仰々しい態度や年寄りの客達のひどいファッションや下手くそなバンド演奏を笑った。皺だらけの手足でダンスを踊る老人達を嘲笑しながら、私はしだいにひどい気分になっていった。
私もいずれはああいう肌になってしまうと思ったのだ。週末にスペシャル・ディナー・ナイトに行き、失われた時間を嘆いてみたりするのだろう。その時に、あのモナコの休日を思い出すに違いない。そして、場違いに紛れ込んだ若い連中にその醜さをきっと笑われるのだろう。(p.274)
私達は歳を取るほど感傷を恐れるようになる。取り戻すことのできない時間がどんどん増えていくからだ。
だが、同時にセンチメントから守ってくれるものと出会うこともできる。
例えば、あのブイヤベースのようなものだ。
あのブイヤベースには、海の香りと、それに勇気が詰まっていたのである。(p.276)
「リーブル」の読書日記