死の島

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死の島 上下巻(福永武彦/新潮社)

この小説は、非常に複雑な構成をしている。
物語の中に別の物語があり、更にその中にも複数の物語が入り込んでいるという重層構造になっている上に、特定の人物の主観描写と、ナレーションとしての客観描写が交互に入り乱れている。
それに加えて、全ての章が時系列を無視したランダムな配列になっているという、これ以上ないぐらいの、ややこしい構造になっている小説だった。
そのため、読み進めるにあたって、かなりの集中が必要になったけれど、それを通り過ぎた先には、予想をはるかに超える展開が待ちかまえていた。
人が過去の記憶をたどる時には、必ずしもその時系列順に並んでリニアにイメージが浮かぶわけではなく、思考の流れにしたがって、イメージはあちこちに逍遥する。この小説は、人の主観的な記憶に極めて近い形で構成された、挑戦的な作品だといえる。
「死の島」が発表されたのは1971年。その時代を考え合わせれば、ゆき過ぎなくらいに前衛をゆく小説であっただろうと思う。著者は明らかに、小説としての枠を超えて、小説以上のものを表現しようとしてこの作品を構想したはずだ。この緻密な構成を用意した理由がわかった時には、よく練られた推理小説の謎解きを読んだ時以上の衝撃があった。
この本は、友人のご母堂である和子さんの蔵書からお借りしたもので、残念なことに、現在は絶版になっていて、古書としてしか入手が出来ない。時の経過とともに、こうして失われていく名著があるというのは、惜しい気持ちがする。
【名言】
僕等のように原爆を体験した人間が、何かを信じるということが出来るものだろうか。僕は被爆者がキリスト教を信じたり、仏教を信じたり、世界の平和共存を信じたりしているのが不思議でならない。あれだけの不条理を押しつけられて、今さら何かを信じられるなんて変じゃないか。僕等はみんな内部的に壊れて行きつつある。信じるものがなければ壊れていくのは当たり前だ。(上巻p.339)
相馬さん、あなたは臆病な、卑怯な、馬鹿な男だ。あなたは愚にもつかない議論と、目移りばかりしている教養と、小説を書こうなどというつまらない野心とのために、わたしが何を求めているのかを見抜くことが出来なかった。あなたのような馬鹿な人に、どうして愛が分かろう。いな、愛がないということが、どうしてあなたに分かろう。そんなものはありはしない。ただこうして、一つの身体を抱きしめ、隠された肌を探り、その冷たさを解きほぐす行為の中にだけ、愛のようなものがある。それなのにあなたは、それなのにあなたは・・。(上巻p.348)
分からないでしょうね。わたしの眼にはここにいる人たちがみんな骸骨に見えるのよ。比喩じゃなくて、本当に。ここに勤め出してから時々そういうことがある。音楽に合わせて骸骨が踊っている。死の舞踏ってのがあるけど、わたしは何もそんなロマンチックなことを言っているのじゃない。正真正銘にそう見えてしまって、いくら眼をこすってもその幻覚が消えない。きっと幻覚じゃないのね。それがわたしの見る現実なのね。(下巻p.155)
そうよ、相馬さんが現れたわ、とてもいい人、立派な人、あたしの愛した人と較べたら百倍もいい人よ。でもね、それは違うのね、あたしの愛した人がどんなにつまらない人間でも、あたしはその人を選んであたしの魂をすっかりその人でいっぱいにしたんだから、今さら魂が空っぽになったからといって、他の人でそれを埋めることは出来ないわ、そうでしょう。(下巻p.395)