嘔吐


嘔吐(サルトル/人文書院)

基本的には退屈で、どうということもない話しだ。大きな出来事や事件が起こるわけでもない。
でもこれは、起承転結のある物語を語っている小説ではなくて、「実存」というものが何なのかを説明するために、ありきたりの日常を淡々と取り出したテキストブックだから、しかたないことなのだろうと思う。
「吐き気」ということについての描写を読んで、それと同じような体験を小さい頃にしたことがあったのを思い出した。
「自分はまさに今、ここにいる。そう考えているいる自分自身も、ここにいる。そう考えている自分も・・」ということを何十回も繰り返すと、そのうちに、自分自身がいったい何者なのか、周りと自分との境界がわからなくなった。
あの感覚のことを、この作品の中では「吐き気」と呼んでいるのだと思った。
実存主義的な物の考え方を見ていると、「そりゃ、そんな風に突き詰めて考えたら、なんだって意味わかんなくなってくるよ」という感じがして、これはヒマを持て余して、考える時間をたっぷり持った人が行き着く袋小路なのではないかと思った。
この思考を、日常のあらゆる事柄に適用していくと、すべてが無意味に思えて、空しく感じられるのだろうという気がする。すべての人生は、演じられている人生なのだという気がしてきてしまう。これは、現実を抽象的なものに変換していく作業で、毒にもなれば薬にもなる、取り扱いが危険な思考パターンなのだと思った。
【名言】
あの青年たちには驚くほかはない。彼らはコーヒーを飲みながら、明快な、ほんとうらしい話しをしている。彼らは昨日したことをたずねられても、狼狽なんかすることなく簡単に知らせてくれるだろう。私だったら支離滅裂なことを言ってしまうだろう。ずいぶん前から、私が一日中なにをしているかを、もうだれも気にかけないというのはほんとうだ。人間がひとりで暮らしていると、語るとはどういうことであるかさえ、もうわからなくなる。(p.15)
自己反省には完璧な日。人類の上に太陽が投げかける、情け容赦もない裁きに似た冷たい光。それは眼から私の内部に入ってくる。私は内側から、人の気持ちを萎えさせる光によって照らされている。私は確信する。十五分もあれば、自分が最高の自己嫌悪に陥るのに充分だろう、と。(p.26)
たえず別のカードがおち、手が行ったりきたりする。なんという奇妙な仕事だ。それは遊戯でも、儀式でも、日常の習慣らしくもない。ただ単に時間を埋めるためにだけ、それをしているのだと思う。しかし時間はあまりにも広漠としているので満たされはしない。時間の中に埋もれるものは、すべて柔らかになり、伸びてしまう。(p.36)
私は冒険を経験しなかった。揉めごと、さまざまな事件、いざこざなど、なんだって経験したが冒険を経験したのではなかった。これは言葉の問題ではない。私は、いまようやくわかりかけてきた。(p.62)
人が生活しているときにはなにごとも起こりはしない。舞台装置が変わり、人びとが入ってきたり、出て行ったりする。ただそれだけのことだ。決して発端などありえない。日が日に、わけもわからずにつけ加わって行く。それは果てしのない単調な加え算だ。(p.66)
人の群が疎らになり、海の喘ぎが明瞭に聞こえる。防波堤の手すりに両手で凭れかかっていた若い女が、口紅が黒い線を引いたように見えるその蒼い顔を空にむけた。人間を愛さないでいられるだろうか、と私は一瞬の間自問した。しかし結局、今日は彼らの日曜日で、私の日曜日ではないのだ。(p.89)
たとえば、苦痛を伴う塾考である<私は実存している>というやつを維持しているのはこの私である。私。肉体、それはいったんはじまればひとりでに生きて行く。しかし思考は、この<私>が続け、展開しているのだ。私は実存する。私は自分が実存すると考える。ああ、長き蛇のごとき実存するというこの感情よ。しかも、私はこの感情を非常にゆっくり展開している・・。もしも私に思考するのをやめることができたならば。私は試す。それに成功する。自分の頭が煙で満たされたように思われる・・ところでまたあれがはじまる。「煙・・考えないこと・・。私は考えたくない・・。私は、考えたくないと考えている。私は、考えたくないと考えてはならない。なぜならそれもひとつの考えだからだ。」これでは、いつまでも続くのではなかろうか。(p.162)
記すことなし。実存した。(p.168)
私は<吐き気>を理解し、それに精通したのだ。じつを言えば、私は自分の発見したものを、言葉に直したのではなかった。しかしいまとなっては、言葉にすることは容易だろうと思う。肝要なこと、それは偶然性である。定義を下せば、実存とは必然ではないという意味でもある。実存するとは、ただ単に<そこに在る>ということである。実存するものは出現し、偶然の<出会>に任せるが、実存するものを<演繹する>ことは絶対にできない。これを理解した人はいると思う。ただ彼らは、必然的にして自己原因なる存在物を考えだし、この偶然性を乗り越えようと試みた。ところで、いかなる必然的存在も実存を説明することはできない。偶然性とは消去し得る見せかけや仮象ではない。それは絶対的なものであり、それ故に完全な無償なのである。すべてが無償である、この公園も、この町も、そして私自身も。(p.215)
しかしまだなにひとつ過ぎ去ってはいなかった。なぜならアニーはまだそこにいた。そして彼女に再会することも、彼女を説き伏せ、永遠に私の同伴者にすることもまだ可能だったから、私はまだ孤独を感じてはいなかった。(p.254)
女は愉しんでいる。女にとっては私など、一遍も会ったことがない男と同じ程度の存在にすぎない。一瞬のうちに私は女の裡から消えた。そして世の中のあらゆる意識からもまた、私はいなくなった。私は妙な具合である。けれども私は、自分が実存すること、<私>がここにいることを知っている。(p.277)