フラジャイル


フラジャイル(松岡正剛/筑摩書房)

ものすごい本だと思った。松岡正剛という人は、書きたいことは山ほどあるのに、それを書いてまとめる時間が全然足りない人なんだろうと思う。
そういう人が、力を注いでまとめた一冊の本というのは、計り知れないほどの価値がある。この一冊が生み出される背景に、膨大な量の知識と、それらの有機的な結びつきが必要であることは間違いない。これは、どれだけ高性能な検索エンジンやスーパーコンピュータによっても作り出すことが出来ないものであり、ただ一人の驚異的な情報整理力を持つ人間の脳によってのみ、作り出すことが出来るものなのだと思う。
テーマとしては、「フラジャイル」という、「弱さ」とか「繊細さ」というような、かなり曖昧模糊としたものを扱っているけれど、その、あらゆる物事に関連するキーとなるような概念を中心にして、話しは周辺の様々な雑学的情報に触れながら、どんどんと奥行きを増していく。その範囲はとても広範で、この本自体が松岡氏本人が言うところの「キーブック」として機能するようになっている。
個々の内容について、あまり深く掘り下げれているわけではないにしても、これ一冊の中に収められた、膨大な情報は、「知の世界」ともいえる広大な領域を垣間見せてくれるに十分なインデックスを惜しみなく提示してくれていて、数え切れないほど多くの分野についての興味をかきたててくれる本だった。
【名言】
敗北の美学のみが永続的だ。
敗北を解しない者は敗者だ。・・
人がもしこの極意を、この美学を、
この敗北の美学を理解しなかったら、
その人はなんにも理解しなかった人だ。
(ジャン・コクトー「阿片」)(p.11)
弱さや弱者はもっぱら排除の対象とされる歴史を背負ってきた。弱さは異質性や異常性として理解され、ケガレやキヨメの対象にされる。われわれの子供時代にも体験したことであるが、背が低い、顔が黒い、喋り方が変である、汚い町に住んでいる、病弱である・・こんなことのすべてが弱いものいじめの標的となる。
しかし、これはずいぶん昔からのことでもあった。なぜか童話の主人公の多くが体の異常や境遇の異例を訴えている。すなわち、そのような弱者の光景こそは、じつは歴史のなかであふれんばかりの熱意と描写をもって表現されてきたものでもあったのだ。危ういものや異例的なものは、しばしば物語の格好の主題となってきたのである。(p.18)
われわれは、つねづね自分はまるごと「一人ぶんの自分」だとおもいこみすぎているようだ。何がそういう「私」という統合性を維持させているのか知らないが、「俺は俺だ」という一体感がいかに勝手な思い込みによってささえられていたかということは、かりにも内臓をやられてみると気がついてくる。(p.109)
本節の話題にとって大きなことは、パララックス(平行視差)が劇的に発達したことである。
パララックスは二つの眼球が顔の両側の側面ではなく、顔の前面に二つ平行して並んだことをいう。おかげで眼球に焦点を自由にむすべるレンズ体ができあがり、ヒトは遠方と近傍のいずれをも把握する定点視野をもつことになったのである。これがあとからおもえば「距離観念」と「場所観念」の発生につながった。(p.121)
夕方には昼と夜の二つの世界がまじりあう。そこには昼も夜もない。中間である。昼でも夜でもないから、そこでこれをトワイライト・タイムとよぶ。トワイライトは文字通り「二つの光」という意味だ。
トワイライト・タイムは昼も弱く、夜も弱い。どちらでもなく、どちらでもある。明け方もまたトワイライト・タイムによく似ていると見えるが、夜明けの光はけっして弱くはならず、日の出とともに一挙に強くなる。これではいかにも野暮だった。(p.137)
私は、大人の心理の大半が少年少女期に芽生えているものだとおもっている。芽生えているというと、うっすらとしたオブラートのようなものとおもうかもしれないが、むしろ少年少女の心理体験は大人になってからの体験よりもずっと苛烈であり、ずっとドライブがきいている。大人の言動のカリカチュアが濃い輪郭をもってインプリンティングされているうえに、そこに、少年少女の特有の感受性が加わっているからだ。(p.163)
このように見てくると、この世で「複雑な世界」を最も凝縮して体現してしまっているのは、どうみても人間自身なのである。自然界でこれほど複雑なシステムをもっているものは見つかっていない。また、見つかってほしくもない。そんなシステムは悪女のようにあつかいがたいへんである。(p.198)
生物史では、だんだん複雑性が出てきたのではなく、あるときに複雑性を活用する戦略の変更が創発的に出てきたはずなのだ。その戦略の変更は情報編集のしくみにかかわっていた。さきほどのべたばかりの、ハード的な「デザイン」をソフト的な「編集」で訂正しているというのも、そういう意味である。(p.203)
われわれは自分のことを、健康で民主的ですばらしく平均的な人間像に近いものとおもわされ、また、ついついそのつもりになっている。
そのため、日々の中で意識の裏地からときどきやってくるトラウマやコンプレックスや「まさかの葛藤」にびくつき、おどろいている。この葛藤や矛盾は自分だけにおこっている不幸だとおもってしまう。しかし、どう考えても、われわれはもともと「損なわれた存在」であったのである。
われわれは、生物としては牙と毛皮と走力を失い、動物としては視力と聴力と嗅覚を低下させ、あげくに、数年におよぶ育児をしてもらわなければ一人前になれない未熟児として生まれてきた「損なわれた存在」だ。おまけに、われわれの脳には残忍なワニの脳と狡猾なネズミの脳とが同居し、エンドルフィンなどの麻薬物質が入っている。これでは人間の内側は「できそこないの狂暴」でできあがっているといわれてもしかたがない。(p.387)
ここでおもいあわされるのは、素粒子はたった一個で生まれてきたり消えていったりはしないということである。素粒子はつねに対発生と対消滅をくりかえす。これを科学者たちは「素粒子には自己同一性がない」などという。素粒子は自立していない。(p.421)
ネットワーカーは、なにも人ばかりをさしてはいない。自然界や生命界で「触媒」とよばれたり、また「ホルモン」とか「酵素」とかとよばれているものも、正真正銘の情報のネットワーカーなのである。(p.426)
「リーブル」の読書日記