走ることについて語るときに僕の語ること(村上春樹/文藝春秋)
言葉がとてもいい。
これは、マラソンやランニングについての本であるというよりも、マラソンをテーマにしたエッセイという形態をとった思想書、のようなジャンルの本だと思う。
走るということについて語っていながら、そこには、村上春樹という人間の人生観や考え方がたしかに凝縮していて、それを知ることで、彼の小説にある独特な雰囲気が、どのような成り立ちで生まれているのか、わかったような感じがした。
特に、小説家という職業について語っている部分が面白い。
これまでに、旅行記のようなエッセイは出版されているけれども、彼が、自分自身の職業のことを、ここまでまとめて語っているというのは、他に無いのではないかと思う。
小説ではなく、自分自身の出来事を書く場合でも、これほど客観的に、まるで自分が創造した世界の登場人物であるかのように描写が出来るというのはスゴいことだと思う。
小説の中であればどこかのキャラクターに仮託してしゃべらせているセリフを、著者本人の言葉として語っているわけだから、重みはやはり違うし、実体験そのままをテーマにしている分、その、マラソンにかけるストイックさは余計に心に響くものがあった。
【名言】
小説家という職業に--少なくとも僕にとってはということだけれど--勝ち負けはない。発売部数や、文学賞や、批評の良し悪しは達成のひとつの目安にはなるかもしれないが、本質的な問題とは言えない。書いたものが自分の設定した基準に到達できているかいないかというのが何よりも大事になってくるし、それは簡単には言い訳のきかないことだ。他人に対しては何とでも適当に説明できるだろう。しかし自分自身の心をごまかすことはできない。そういう意味では小説を書くことは、フル・マラソンを走るのに似ている。(p.22)
誰かに故のない(と少なくとも僕には思える)非難を受けたとき、あるいは当然受け入れてもらえると期待していた誰かに受け入れてもらえなかったようなとき、僕はいつもよし少しだけ長い距離を走ることにしている。いつもより長い距離を走ることによって、そのぶん自分を肉体的に消耗させる。そして自分が能力に限りのある、弱い人間だということをあらためて認識する。いちばん底の部分でフィジカルに認識する。そしていつもより長い距離を走ったぶん、結果的には自分の肉体を、ほんのわずかではあるけれど強化したことになる。腹が立ったらそのぶん自分にあたればいい。悔しい思いをしたらそのぶん自分を磨けばいい。そう考えて生きてきた。黙って呑み込めるものは、そっくりそのまま自分の中に呑み込み、それを(できるだけ姿かたちを大きく変えて)小説という容物の中に、物語の一部として放出するようにつとめてきた。(p.36)
店をやめて小説家としての生活を始めたとき、我々--というのは僕とうちの奥さんのことだ--がまず最初にやったのは、生活のパターンを一新することだった。太陽がのぼるころに目覚め、暗くなったらなるべく早く寝てしまおう、と決めた。それが我々の考える自然な生活だった。まっとうな人間の暮らしだった。もう客商売はやめたんだから、これからは会いたいと思う人にだけ会って、会いたくない人にはなるべく会わずにすませよう。そういうささやかな贅沢が、少なくともしばらくは許されていいはずだと僕らは感じていた。(p.56)
僕は思うのだが、本当に若い時期を別にすれば、人生にはどうしても優先順位というものが必要になってくる。時間とエネルギーをどのように振り分けていくかという順番作りだ。ある年齢までに、そのようなシステムを自分の中にきっちりこしらえておかないと、人生は焦点を欠いた、めりはりのないものになってしまう。まわりの人々との具体的な交遊よりは、小説の執筆に専念できる落ち着いた生活の確立を優先したかった。僕の人生にとってもっとも重要な人間関係とは、特定の誰かとのあいだというよりは、不特定多数の読者とのあいだに築かれるべきものだった。(p.58)
僕に言えるのは、人には生まれつきの「総合的傾向」のようなものがあって、本人がそれを好んだとしても好まなかったとしても、そこから逃れることは不可能ではないかということくらいだ。傾向はある程度まで調整できる。しかしそれを根本から変更することはできない。人はそれをネイチャーと呼ぶ。(p.117)
何はともあれ、これが僕の肉体である。限界と傾向を持った、僕の肉体なのだ。顔や才能と同じで、気に入らないところがあっても、ほかに持ち合わせはないから、それで乗り切っていくしかない。年齢を重ねると、そういう按配が自然にできるようになってくる。冷蔵庫を開けて、そこに残っているものだけを使って、適当な(そして幾分は気の利いた)料理がすらすらと作れるようになる。リンゴとタマネギとチーズと梅干しかなくても、文句は言わない。あるだけのもので我慢する。何かがあるだけでもありがたいのだと思う。そんな風に思えるのは、年を取ることの数少ないメリットのひとつだ。(p.119)
僕の人生にもそのような輝かしい日々が、かつては存在したのだろうか?そうだな、ちょっとくらいはあったかもしれない。しかし、もし仮にそのころの僕が長いポニーテールを持っていたとしても、それは彼女たちのポニーテールほど誇らしげには揺れていなかっただろうという気がする。(p.129)
今となっては、どれだけ努力したところで、おそらく昔と同じような走り方はできないだろう。その事実を進んで受け入れようと思う。あまり愉快なこととは言いがたいが、それが年を取るということなのだ。僕に役目があるのと同じくらい、時間にも役目がある。そして時間は僕なんかよりはずっと忠実に、ずっと的確に、その職務をこなしている。なにしろ時間は、時間というものが発生したときから(いったいいつなのだろう?)、いっときも休むことなく前に進み続けてきたのだから。そして若死をまぬがれた人間には、その特典として確実に老いていくというありがたい権利が与えられる。肉体の減衰という栄誉が待っている。その事実を受容し、それに慣れなくてはならない。(p.164)
車体には「18 ‘til i die」と書いてある。ブライアン・アダムズのヒット・ソング『死ぬまで18歳』のタイトルを借用した。もちろんジョークだ。死ぬまで18歳でいるためには18歳で死ぬしかない。(p.189)