叡知の海・宇宙


叡知の海・宇宙(アーヴィン・ラズロ/日本教文社)

とんでもなく面白い本が、世の中にはあるものだと思った。こんな本が、千円そこそこで手に入ってしまっていいのかという戦慄すらおぼえる。訳が上手いために、語られている内容は込みいっているにもかかわらず、とても読みやすかった。
量子力学によって、「観測によっては決して確定出来ないことがある」ということが明らかになって以降、数十年間の間、科学の発展は停滞していた。それが、ここ最近の研究で突然、飛躍的に進歩してきているのだという。
この本には、びっくりするような話しがたくさん出てくるのだけれど、どれも、SFの中のフィクションではなく、多くの科学的な検証の積み重ねの末に明らかになってきたことばかりなのだ。
中でも最も面白いと思ったのは、「同じ原子核から分裂した2個の素粒子は、どれだけ離れていても、片方に変化を加えると、必ず同時にもう片方にも同じ影響が発生する」ということだった。
驚くべきことに、この現象は素粒子だけでなく、互いに似た波長を持つ生体においても同じように発生する。そして、その伝達速度は光よりもはるかに速いのだという。アインシュタインの物理学では、光より速いものは存在しないことになっているので、この点でも、これまでの常識を超えている。
今出ている仮説は、「水や真空には、それが過去に経験した膨大な情報が記憶されているのではないか」ということだ。そして、その情報は一瞬にして何千光年離れた場所にも伝わるのだという。確かに、そういう仕組みがあると仮定すれば、色々な謎が解明される気がする。
「運命の赤い糸」のような話しは、これまでは、非科学的だと一蹴されて終わりだったが、最先端の科学では、逆に、そういうことが基本的な共通認識になりつつある。
考えてみれば、自分が生まれて以降、現在までの間には、科学や思想の分野において、パラダイム・シフトを起こすほどの、大きな発見はなかったのだと思う。
この本に書かれていることが理論的にきちんと確立した時には、ダーウィンの進化論以上の、大きな転換期が訪れるのかもしれない。自分が生きている間にそのようなことが起こる可能性があるというのは、とても楽しみなことだ。
【名言】
人間の意識が常識的な範囲を超えてさまざまなことを成し遂げられることが今日発見されているが、これは半世紀前のアインシュタインの次のような発言を思い出させる。「一人の人間は、我々が『宇宙』と呼ぶ全体の一部、時間的、空間的に制限されている一つの部分である。人間は、自分の思考や感情を、他の部分からは独立したものとして経験するが、これは一種の錯覚、すなわち人間の意識が視覚によって騙されているのである。この錯覚のせいで、我々にはこの錯覚が一種の枷になっている」。(p.49)
神経生物学的な脳研究の最先端で、真の科学的な説明が出現しつつある。その鍵となるのは、脳は生化学的な機械ではないという洞察である。脳は、あるいは、生命体の全体は、「巨視的な量子系」なのである。(中略)個々の目的のために特殊化されたニューロンのネットワークの樹状突起構造に沿って生み出される、この高度な秩序をもったパターンの場は、脳のダイナミックな自己組織化の効果の表われである。これは混沌(カオス)の周辺部で起こり、脳の系全体に量子的一貫性(コヒーレンス)をもたらすプロセスである。(p.141)
空間は物を分離しているのではなく結びつけているのだという、古くからあった直感的知識に対して、本物の科学的説明が存在することに人々が気づいたとき、現代文明を代表する、新しいものを創造する天才たちは、これを実用に供する方法を見出すであろう。(中略)これによって量子コンピュータが実現するばかりか、一連の技術革新が次々と起こる道が開けるだろう。(p.154)
地球における生命進化は、偶然の突然変異に依存することはなかったし、また、生命の起源に関する「生命播種(バイオロジカル・シーディング)説」が主張するような、地球以外の太陽系のどこかからもたらされた生命体や「原・生命体」も必要としなかった。そうではなくて、最初の原・生命体がそこから出現した化学的混合液(ケミカル・スープ)は、Aフィールドによって伝播された、地球外生命の痕跡によって情報を与えられたのである。地球の生命は「生命播種」されたのではなく、「情報播種」されたのである。(p.188)
この古くからの「脳対心」の問題への新しい解決法に名前をつけるとするなら、「進化論的汎心論」が最適だろう。汎心論とは、すべての存在には心がある、心は世界のなかにあまねく存在する、とする哲学的立場である。「汎心論」を「進化論的」と修飾したのは、心はすべての存在に、一様に同じ成熟度で分布しているのではないという見解を明示するためである。私たちは、心も物質と同じように進化すると主張する。(p.205)
西洋文明の否定的な側面に存在する陰鬱な虚無感を、名高い哲学者バートランド・ラッセルは次のように表現している。「人間を生み出した原因は、その結果についての見込みなどまったくもっていなかったのだということ、人間の希望も恐れも、愛も信条も、原始の偶然の配列によって生まれたのだということ、どんな情熱や英雄的行為も、どんなに深い思考や感情も、個人の死を超えて存続することはないということ、古代から続けられた労働も、あらゆる努力も、すべてのインスピレーションも、まばゆいばかりの人間の天才のすべても、太陽系の終焉とともに消滅する運命にあるのだということ-これらのすべてが、完全に議論の余地がないわけではないにしても、やはりほどんど確実であるために、これらを否定して立ちあがる希望をもった哲学など存在しない」。
だが、ラッセルが言及している事柄はすべて、「議論の余地なし」ではなく、「ほとんど確実」でもないばかりか、単に旧い世界観が作り上げた妄想にすぎないかもしれないのだ。(p.11)