赤朽葉家の伝説

赤朽葉家の伝説
赤朽葉家の伝説(桜庭一樹/東京創元社)

物語は戦後の、鳥取の外れにある小さな一つの村から始まる。村の高台に住む赤朽葉家は、たたら製鉄で財を成した、その土地の領主で、その旧家や土地には旧い伝説が残されている。
ある人物をクローズアップした物語ではなく、ある「家」を中心にして、三代にわたって定点観測した物語であるというところが、とても面白い。
戦後の日本で、まだテレビによって情報が均一化される前は、日本じゅうにこういう村や旧家がたくさんあったのだろうと思う。近代化の波は、山陰の小さな村にも例外なくやってきて、その領主たる赤朽葉家もその流れを避けることは出来なかった。
この物語は、日本の民俗学のテキストであり、戦後日本がたどった現代史のテキストでもある。一つの村を見続けることで、この60年間に日本がどんな道を歩んできたのかが、とてもよくわかった。
この小説には、一つの大きな謎が隠されている。だから、書店でのジャンルとしてはミステリーに分類されるのかもしれないけれど、それよりは、このスケールの大きさからして、大河小説という分類がぴったりとくる気がする。
人の人生は、本人の個性(内部的要因)と、時代や様々な環境(外部的要因)の組み合わせによって織りなされる織物のようなもので、どの家にも、歴史と共に様々な横糸と縦糸が組み合わされ、独特の模様が形づくられていく。
その中でも、この赤朽葉家の伝説は、ひときわ絢爛な模様によって彩られた一幅のタペストリーと言うにふさわしいと思う。
【名言】
瞳子と名づけられたからにはなるほど、瞳はある程度ぱっちりとしていたが、母のような人目を引く美女でもなく、万葉のような力をもってもいなかった。わたしは、いわゆる、普通の女である。だからこそこうして、赤朽葉家の女たる、祖母と母の物語に心惹かれてしまったのかもしれない。二人は輝ける過去であり、歴史であり、わたしのルーツなのである。この平凡な、若い女でしかない、わたしの。彼女たちのことを考えるとき、わたしは、自分にもなにがしかの価値があるように感じるのだ。(p.220)
わたしは「足りてない」と確信している。だけど、「それでいい。過度な期待なんて人生にしちゃいけない」と戒める声も聞こえてくる。「足りてない」の声はわたし自身の心の叫びであり、「それでいい」と戒めるのは時代の声である。そんな気がする。叫びだしたいほど、ほんとうは不安だ。だけど、なにを叫ぶ?(p.229)
自分は薄ぼんやりとした、無気力気味な、ただの消費者のままで過ごしたい、と勝手なことを考えてみた。生産者になんてなれない。なりたくない。社会で責任を負いたくない。だけど社会において逃げ切っても、人間関係では逃げ切れなかった。人とのつながりもまたちいさな社会であり、わたしはそこでも見事に、みっともなく躓いていたのだ。(p.284)
ようやくたどりついたこの現代で、わたし、赤朽葉瞳子には語るべき新しい物語はなにもない。なにひとつ、ない。紅緑村の激動の歴史や、労働をめぐる鮮やかな物語など、なにも。ただわたしに残されているのは、わたしが抱える、きわめて個人的な問題だけだ。それはなんと貧しい今語りであることか。しかし、もしもこの先もユタカと別れずにいて、何年かして結婚することになったら、わたしは祖母も母もしなかった唯一のこと、つまり恋愛結婚をする女になるのだ、とふと気づいた。これからどうなるのか、未来はまだぜんぜんわからないけれど。(p.296)
わたしたちは、その時代の人間としてしか生きられないのだろうか。たたらの世界をめぐるこの村の男たちも、女たちも、生きたその時代の、流れの中にいた。人間というのはとても不器用なものだ。(p.308)
赤朽葉毛毬は猛女であり、鉄の女でもあったのだが、その人生のそこここで、不思議なほど死者に足を取られる女でもあった。(p.169)
毛毬から異様なほどの、張り詰めた気配が伝わってきた。時代を背負っている者に特有の、二つのオーラがからみあって毛毬から放たれていた。それは華やかさと、それと相反する死の気配であった。(p.194)

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