世に棲む日日 4巻


世に棲む日日 4巻(司馬遼太郎/文芸春秋)

完結編の巻。
この「世に棲む日日」では、吉田松陰も高杉晋作も、坂本竜馬とは会っていないことになっている。小山ゆうの「お~い竜馬」の中では、二人とも坂本竜馬に会っていたから、交流があったものと思っていたけれど、おそらく、そっちのほうが物語をドラマチックにするための創作で、実際には会ったことはなかったのだろう。
この、藩を越えて志士同士が交流をおこなっていて、それが醍醐味でもあった時代において、晋作という人は奇妙なぐらいに、他藩の人間との関わりをしていない。とことんまで長州という藩のことを考えて、長州のために生きようとしたところは、他の志士と大きく価値観が違うところで、面白い。
この巻で、晋作以外に興味深かったのは、のちの陸軍大将になる山県狂介の若い頃の、奇兵隊の中でのエピソードだ。非常に用心深くて慎重に行動をするこの人物も、その人生の中で何回かは意を決して、死を覚悟の上で無謀な行動に飛び込む必要があった。そういう人々の中で、維新後に政府の大臣になるかどうかの分かれ目は、資質ではなく、単純に維新の後まで生き残ったかどうかにのみかかっている。そう考えれば、歴史に名が残るかどうかというのは、紙一重の運によって決まるものだという気がする。
高杉晋作の人生は短い。たった27歳8ヶ月の若さで死んでいる。
しかし、高杉晋作という人ほど、太く短く燃え尽きる生き様が似合う人間は他にいないだろうと思う。この物語を読むとわかるのだけれど、短い人生の中で、高杉晋作は確かに自分の役目を完遂した上でこの世を去っている。これ以上生き長らえたとしても、それはそれで本人にとって不本意な余生ということになったかもしれない。
それは、29歳で世を去った吉田松陰という人についても同様で、この二人を主人公にすえて動乱の真っ只中を描いたこの小説は、これ以上ありえないくらいにドラマチックで、何回読んでも心を揺さぶる場面が数え切れないほどあらわれる、名作中の名作だと思う。
【名言】
伊藤は、馬で夜道を奔った。伊藤はたてがみにしがみついた。馬にくらいつきながら、馬関での大仕事をおもった。伊藤は、
(おれはもう死んでいるのだ。死霊が駆けているのだ)
そう思え、と自分に言いきかせた。政敵の赤根武人は伊藤を「才子」とあざけったが、たしかにこの若者は多少の軽薄さをもった才子であった。かれがもし、この時期、長府・下関のあいだを死霊になった気で奔ったという意外な一面がなかったならば、かれは生涯単に才子として終わったかもしれない。(p.21)
「攘夷はどうなります」
伊藤は、かさねていった。すでにひそかに開明論者になっている伊藤にとって、攘夷同志とのつきあいが頭痛のたねであった。うかうかすると、伊藤は自分の同志から殺されるかもしれない。
「伊藤よ」
「はい」
と、伊藤はかたずをのむ思いで、晋作の解決法をきこうとした。
「宇宙は止まってはいない。そのうち一回転するよ」
と、事もなげに言い放った。宇宙とはこの時代の流行語で、晋作のここでいう意味は、時勢というほどの意味である。(p.143)
「坂本に会いますか」
と、伊藤がいったことがある。晋作は、一笑に付した。
「会う必要はあるまい」
と、にべもなくいった。晋作ほど、他藩の連中に会いたがらない男もめずらしかった。幕末の奔走家の最大の快事のひとつは、他藩の士と交際し、友を得ることであった。元来、三百年の閉鎖社会は二重に閉ざされていて、日本も鎖国なら諸藩も他の藩に対して鎖国であった。それが崩れ、奔走家たちが諸藩の士と交わったとき、世界が大きくひろがったのだが、晋作は固陋なほどに長州至上主義であり、
「他藩の連中につき合ってなにになるか」
と、たかだかと高言していた。(p.153)
「おうの、浮世の値段はいくらだと思う」
「・・五両ぐらいかしら」
晋作は、そういうおうのが気に入っていた。おうのの、真綿の入ったような手の甲をほたほたと叩きながら、目をつぶっている。
詩をつくろうとしている。
「なんぼどす?」
おうのが、心配になってきたらしい。
晋作は、その手の甲を、また叩いた。晋作のいう浮世の値段というのは、おうのが受けとった意味とちがっている。美人であれ、不美人であれ、英雄であれ凡骨であれ、ひとしなみに人生とはいったいどれほどの値段かということであった。生きていることの楽しみはたしかに多い。しかしその裏側の苦しみもそれとほぼ同量多いであろう。その楽と苦を差引き勘定すればいくら残るか、というのが、晋作のいう浮世の値段なのである。
(まあ、三銭か)
と、晋作はおもった。それ以上ではあるまいと、この若者は思うのである。かれは歴史のはじまりは神武帝だとおもっている。それ以来二千年、何億の人間がこの世に出てきたが、それらはことごとく死に、何億の煙を作って消え、愚者も英雄もともに白骨になった。まったくのところ、浮世の値段はせいぜい三銭か。(p.191)
「道後の湯へ参られたことがございますか」
と、晋作は肥大漢にきいた。肥大漢は、はい、二度ござりまする、と答えた。
「あの湯に、神代、少彦名神が病まれ、湯につかって心気一変、よくなられたというが、ごぞんじか」
と、晋作は、とりとめもない話題をもちだして、相手の反応を知ろうとした。肥大漢は、道後の湯の縁起について明るいらしく、しかも晋作が質問をかさねてゆくうちに、晋作が予期しなかったことに、この肥大漢には国学の素養があるらしいことだった。晋作は、少彦名神が病苦が去って全快したときに叫んだという古代日本語がひどく哲学的な感じで好もしくおもっていたが、かんじんのその言葉をわすれてしまった。それをこの博徒に質問すると、かれは、
「マシバシ イネツル カモ」
と、教えてくれたのである。マシバシとはしばらくという意味。イネツルは寝つるであり、「しばらく寝ていたようだなあ」というただそれだけの意味だが、晋作にはなにやらそれが人の世を象徴しているようにも思える。(p.201)
「二十一回猛士」
と、松陰がみずから称したということを燕石がきいたとき、燕石は驚嘆し、感動した。松陰はその生涯で二十一回の猛を発しようとみずから誓い、結局、三回発したのみで、幕府に殺されざるをえなかった。松陰は死にのぞみ、永訣書を書き、「自分の墓碑名は、松陰二十一回猛士とのみ記してもらいたい」と遺言したが、要するに十八回の猛を仕残して松陰は死んだ。その十八回の猛を、門人たる晋作たちがひきついで発すべきであったし、げんに久坂玄瑞ら多くの同門の士が十人のうち八、九人までが猛を発し、非業にたおれ、先師のあとを追った。それを思い、自分が碌々として生を偸んでいることを思うと多少のはずかしさがある、と晋作は語ったのである。(p.217)
晋作の生涯は二十八年でおわる。師の松陰のそれよりも一年みじかい。
が、晋作は松陰の死後、八年ながく生きた。この八年の差が、二人の歴史の中における役割をべつべつなものにした。(p.280)
かれはそのみじかい生涯において自分の活動期が終了したことを知っており、残された晩年の日々を、かれの表現でいえば「閑かに臥し、ひとり惟惟」として、詩文を楽しみつつすごそうとしていた。
「どの人間の生にも春夏秋冬はある」
と、かれの師の松陰がいったことがある。幼少で死ぬ者もそれなりに春夏秋冬があり、長寿をえて死ぬ者も同様であり、春夏秋冬があることは人生の長短とかかわりがない。ゆえに自分が短命におわることにすこしの悔いもない、とは松陰がみずからに言いきかせた言葉だが、晋作の人生の晩秋はみじかかった。しかしいかにみじかくとも、晩秋らしい晩秋を、晋作はごく自然に送っている。(p.286)
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