昭和のエートス


昭和のエートス(内田樹/バジリコ)

この著者の文章には、明晰な論理と、大所高所から客観的に物事を眺める視点があって、読んでいてものすごく腑に落ちることが多い。こういう人の中に蓄積されている、体系だった思想を、本当のインテリジェンスというのだろうと思う。
この本は、一つのテーマに沿ったものではなく、色々な雑誌などに掲載された短文を集めたものになっている。一つ一つは短い内容なのだけれど、その中に、端的にまとめられた、とても重要なエッセンスが含まれていることが多い。曖昧模糊とした概念を、よく、これほどすっきりと取り出して表現が出来るものだと感心する。
さらにすごいと思うのは、著者が、常識通りの意見をなぞって解説をすることを避けて、必ず自分自身の頭で物事を捉え直そうとしているということだ。だから、読んでいて、新鮮な驚きにしょっちゅう出会うことになる。普通に考えるようなところを一通り考えた後に、さらに「本当にそうか?」と2~3往復してから、言葉を出しているように見える。
この本からは、新しい視点と考え方をたくさん教わった。どうやって自分の頭で考えるべきなのか、という方法について、とても得るところの多い本だった。
【名言】
日本ではおおざっぱに世帯の年間所得が200万円以下だと「貧困」に類別される。だが、年収2万ドル弱というのは、世界的に言うと、かなり「リッチ」な水準である。日給240円のニカラグアの小作農は年収87600円である。「絶望的な貧困」と申し上げてよろしいであろう。この場合は、どのような個人的努力を積み重ねても、どれほど才能があっても、小作農の家に生まれた子どもはその境涯から脱出することがほとんど不可能だからである。
一世帯年収200万円はその意味では「絶望的な貧困」とは言えない。その世帯の支出項目に教育費が含まれており、収入が主に企業内労働によって得られているなら、それは世帯構成員たちがこの先、個人的努力によって知的資質や芸術的才能を開発したり、業務上の能力を評価されて昇給昇進するチャンスが残されていることを意味するからである。(p.32)
現実の生活では、私たちは決して「勝ったり、負けたり」しているわけではない。むしろほとんどの場合、私たちは「負けたり、負けたり」しているのである。
第一、究極の勝負とは「生き死にを賭けた勝負」だというのが本当なら、私たちは全員、今この瞬間も確実に訪れる「負け」に向かって歩んでいる。この敗北に例外はない。
私たちは構造的に敗者である。そのことを基礎にして、勝負ということについて考え直すことが必要だと私は思う。私たちが勝負事に熱中するのは、勝つためではない。「適切な負け方」「意義のある敗北」を習得するためである。(p.52)
私が訊ねたいのは「アメリカと戦争をする権利」を担保する気は改憲派の諸君にはあるのか、ということである。
「国際社会の平和と安全を確保するために」アメリカを攻撃するということに「国際社会」が同意した場合には、法理上アメリカと戦争することもできるということを改憲派は議論に先立って、国民の前に断言する必要があるだろうと私は考えている。(p.107)
赤木は「戦争」状態においてなら、他人の口からパンをもぎ取るチャンスが自分に訪れるかもしれないと考えているが、社会が危機的状況に立ち至ったときに、相互支援する組織に属さない孤立した労働者に社会的上昇のチャンスはほとんどない。「不幸な人々」はたしかに増えるだろうが、それは彼が現在以上に幸福になるという意味ではない。
たしかに「今よりもっと弱肉強食の社会になれば弱者にもチャンスがある」というのは一面の真理を含んでいる。けれども、その一面の真理にすがりつく人は「弱肉強食の社会で弱者が負うリスク」を過小評価している。強者とは「リスクをヘッジできる(だから、何度でも失敗できる)社会的存在」のことであり、弱者とは「リスクをヘッジできない(だから、一度の失敗も許されない)社会的存在」のことである。社会における人間の強弱は、成功できる機会の数ではなく、失敗できる機会の数で決まるのである。(p.138)
とりあえず私たちはシステムの中で同類たちとの生き残り競争に参加せねばならず、それと同時にラットレースがその中で行われているシステムそのもののクラッシュに対する備えもしておかなければならない。
国際関係論では、このラットレースで負けることを「リスク」、レースの行われるアリーナそのものが消失するような規模の破局に際会することを「デインジャー」と呼ぶ。予測可能・考量可能な危険と、予測不能・考量不能の危険。この二種類の危険を私たちは生き延びる上で勘定に入れておかなければならない。
私たちはそのようなデインジャーの可能性をほとんど考慮する必要がないまま半世紀以上を過ごしてきた。その意味では私たちは幸福な国民であると言わなければならない。だが、今、日本人がデインジャー対応能力の開発を組織的に怠り、おそらくシステム・クラッシュが訪れたときに生き延びられないほどに脆弱になってしまったのは、あまりにも長く続いたこの平和と繁栄の代価である。(p.154)
私たちは誰も自分についての「物語」を編んでいる。
素材になる出来事はそれ自体としては価値中立的である。
同じように貧しく、愛情の薄い家庭に育っても、長じて穏和な人物になる場合もあるし、けん介な人物になる場合もある。
個人的経験が人間をどう変えるか、その決定因は、出来事そのもののうちにあるのではなく、出来事をどういう「文脈」に置いて読むかという「物語」のレベルにある。(p.182)
「歌枕」に立つと、有名無名の人々が歌を詠まずにいられない気分になるのは、そこで詠む歌は、そうでない場所で詠む歌よりも「深く解釈される」可能性が高いからである。まるで無内容な歌であっても、「これはもしかすると、あまり知る人のいない『あの古歌』をふまえているのではないか」というような「おせっかいな」解釈を呼び寄せる可能性が高いからである。
だから、自分が卑小な人間であることに苦しみ、自分を大きく見せようとする人間は、必ずコピーキャットになる。そして、私たちの社会には自分が卑小な人間であることに苦しみ、自分を大きく見せようとすることに必死な人間がひしめいている。(p.192)
独創性は母国語運用能力に支えられるというと意外な顔をする人が多い。だが、創造というのは自分が入力した覚えのない情報が出力されてくる経験のことである。それは言語的には自分が何を言っているのかわからないときに自分が語る言葉を聴くというしかたで経験される。
自分が何を言っているのかわからないにもかかわらず「次の単語」が唇に浮かび、統辞的に正しいセンテンスが綴られるのは論理的で美しい母国語が血肉化している場合だけである。母国語を話していながら、「次の単語」が出てこない人間、階層構造をもった複文が作れない人間はどのような知的創造ともついに無縁である他ない。(p.202)
みなさんに注意してほしいのは、ネットカフェのビジネスがきわめて収益率の高いものだという事実である。
一泊1500円というのはビジネスホテルに比べれば半額以下であるが、防音も施錠もされない一畳のスペースにパソコンのディスプレイがあるだけの空間の建設と管理のコストはビジネスホテルのおそらく数十分の一であろう。
つまり、ネットカフェ難民たちは経営サイドからすると恐ろしく安い商品に高額の対価を払ってくれる「上得意」なのである。
人間はさまざまな理由で家を離れ、職を離れる。カフェ難民生活が主体的に選択されたものであるなら、その生き方に余人が容喙することはないと私も思う。けれども、このその日暮らしの貧困層から効率的に収奪するビジネスモデルを作り出し、大々的に実施しているビジネスマンにはあまりよい感情を持つことができない。(p.207)