生命と偶有性


生命と偶有性(茂木健一郎/新潮社)

茂木さんは、普通の人が気にしないような細かい部分についてうじうじと考えている。科学者でありながら、自分自身の個人的な感情に訴えかけてくるような事柄に思いをめぐらせている。だからこそ、これほどに詩的な文章を書けるのだと思う。
「偶有性」ということを中心に据えた、著者の生命観はとても面白く、共感する部分が多かった。脳科学者という立場からの意見ではなく、一人の人間として、生命にまつわる驚きと、偶有性がもつ素晴らしさについて語っている。
そのために、科学的な知見に基づく考察というのはほとんどなかったのだけれど、その分、論理性や正確性にとらわれることなく、自分自身の体験に裏打ちされた、生命に対する畏敬のようなものが綴られている感じがした。
だいぶ哲学よりの内容になっているけれども、茂木さんの文章というのは、こういうテーマのほうが、科学的な論文以上に、より個性が発揮されて、ずっと面白いと思う。
【特に面白かった話】
ジョン・ウィーラーの説では、「この宇宙に存在しているすべての電子は、一つの電子である。だから、質量や電化がすべて等しい」。
物理学の定理によって、粒子と反粒子の関係は、時間の流れと関係していることがわかっている。粒子が「過去」から「未来」に向かって運動することと、その反粒子が「未来」から「過去」に向かって運動することは同じである。
もし、世界の中の電子が、すべて過去のある時点で光から陽電子とともに対生成し、また未来のある時点で陽電子と衝突して対消滅するとすると、理論上は、次のようなことが可能になる。すなわち、たった一つの電子が、時間の中を未来へ向かったり、過去へ向かったりしてジグザグに運動するのである。
このモデルでは、宇宙の中にある電子と陽電子は、すべて「一筆書き」でつながっている。たった一つの電子が、時間を順行したり、逆光したりすることによって、宇宙のさまざまな場所を運動する。そのことによって、ある時点においては、宇宙のさまざまな場所に、電子が同時に存在するように見えるのである。
【名言】
脳の最大の特徴は、「学ぶ」ことである。とりわけ、人間の脳には、どれほど学んでもさらにその先のことを学ぶことができるという素晴らしい「オープン・エンド」な性質が宿っている。(p.17)
私の人生は、他の、全く違う形でもあり得たかもしれない。今の境遇とはかけ離れた場所で生まれ、縁なき人の下で育ち、想像もできない職業に就くという人生だったかもしれない。
どんな形であろうとも、生きるということがそもそも「偶有性」に向き合うことであるということさえ忘れなければ、私たちは人生を楽しむことができる。偶有性を楽しむということは、一つの事実認識でもあり、また「覚悟」でもある。(p.32)
たとえ、どんな立場に置かれたとしても、その人生の偶有性を楽しんでみせる。美しい人に生まれたならば、それなりに。凡庸な人生でも、その中に必ず「どうなるかわからない」という偶有性を見いだしてみせる。ヘンテコな人と結婚してしまったとしても、そのヘンテコな日常の中で偶有性を見つけてみせる。偶有性に対する強健な態度とは、すなわち「覚悟」のことである。どんな人生を歩んだとしても、その「偶有性」を引き受け、味わう覚悟さえあれば、生きるということを裏切ることにはならないはずだ。(p.38)
チャールズ・ダーウィンはアメリカの植物学者アサ・グレイに宛てた手紙の中で、「背景に法則が潜み、詳細は偶有性に支配される」と書いた。
私たちの生の詳細は偶有性の作用の中で形づくられる。人の見た目はさまざまである。しかし、その違いのみに心を奪われてはならない。私たちの外見や性格は多様であるが、その背後に、必ず「普遍的にして人間的なるもの」があるはずである。「偶有性」を固定化された表象としてとらえるのではなく、変化し、融合し、乗り越えていくダイナミクスの中にとらえることで、初めて私たちは背景にある「法則」に近づくことができる。(p.44)
酸素や窒素や二酸化炭素の分子だって、本当は自分の思った通りのところに行きたいだろう。しかし、そんなわけにもいかないのだ。室温における大気中の分子の平均自由行程は一ミクロン以下である。動いてはぶつかり、飛び跳ねてはまた軌道が変わる。小突かれ、運動量を交換し、ジグザグに移動しながら、分子たちはさぞや口惜しいだろう。自分の運命のパートナーがすぐ近くを通ったとしても、そう簡単には出会うことさえかなわないのだ。
私たち一人ひとりの人間の社会の中での動きも、また、空気中の分子のそれに似ている。私たちは人々と出会い、交わり、影響され、成長し、そんな中で意志をもって自分の運命を選び取っているかのように思っているが、実際には周囲に小突かれてあっちへふらふらこっちへよろよろしているだけのことである。
周囲との相互作用が準備した本当に狭い軌道の中を、私たちはわけもわからず進んでいる。自分の人生など、完全な意味で自由になるはずがない。だからこそ、何が起こるかわからない、何者でもあり得たという偶有性の知覚だけが、人生において保ち続けることのできる唯一の矜持となるのだ。(p.48)
行動の「曼荼羅」は、感覚の「曼荼羅」に対抗する。人間は、その気になれば実に多様な選択をすることができる。それでも、私たちは、ついつい普段から親しみ、いわば「習慣化」した道筋ばかりをたどりがちである。本当は、私たちの人生の選択肢は無限に分かれていくことができるというのに。その分岐の喜びと恐怖を、日常の中で感受することが少ないからこそ、私たちは油断する。あるいは、何ものかから守られる。
日々積み重ねる選択を通して、私たちは、選び取った結果が指し示す者へと次第に変わっていく。私たちの選択には、必ずや自分の魂の真実が照射される。そして、自分の選択に向き合うことは時に耐え難い真実を直視することにもつながるのだ。(p.68)
禅僧の南直哉さんによれば、「個人がその営み次第で、社会の中で評価、処罰といった報いを受ける」という「クレジットのメカニズム」自体が、禅の修行においては問題とされるのだという。南さんが修行した永平寺では、誰かが何かをしたから報われるとか、処罰されるとか、そのような個人を前提にした思考の枠組みが解体されてしまうのだという。自分が何をしようとも、どれほどの善行を積もうとも、そのことによって自分に対する評価が高まるということはない。一種の不条理のようでもあるが、そのような文脈に投げ込まれなければ気付かぬことがあるのだから仕方がない。(p.161)
フロー状態について考察していると、その最良の性質は、子どもの時に無心で遊んでいたあの無垢な時間のそれときわめて似ていることに心打たれる。
スポーツであれ、芸術であれ、学問である、人はその意味を考えてとかく生真面目になってしまう。しかしそれではフローから離れてしまう。後に見れば仰ぎ見るべき偉大な業績を残した人も、その活動の「星の時間」のただ中においては、むしろその事績の意義をことさらに意識しない。遊びの精神が支配的なのである。(p.180)
十分な技量や知識がなければ、「遊び」の領域に至ることはできない。モーツァルトその人のレベルには到達できないとしても、近い形で、ピアノで遊び、自由に作曲をしようとするならば、それなりの精進が必要である。数学を知らぬ人は、数学者の遊びに加わることはできない。素養を積み重ねなければ、漱石の『坊っちゃん』の風狂に達することは出来ない。(p.196)