人はいずれ、遅かれ早かれどこかで、自分の本音や本質と向き合わなくてはならない。
周りの目を気にして、進学先を決めたり、仕事を決めたり、好きになる人を決めたりっていうのは、何の気なしに無自覚にやってしまうことだけれど、それは実際のところ、とても危うい行為だということが、この物語を読むととてもよくわかる。
要領よく器用にうまく立ち回っていれば、短期的にはその場をやり過ごすことが出来るかもしれないけれど、それだけで永久に逃げ続けることは出来ない。
その逆に、たとえ回り道をしてでも、自分自身と向き合う道を選択した人は、いずれ自分なりの正解を見つけ出すことが出来る。
その真実を知るのが後になればなるほど、インパクトは大きい。
そういうわけで、この「サラバ!」の物語は、終盤になって怒涛の展開を見せることになる。
多数派の人間とは違う感性を持っていたり、周りに合わせることができない性質というのは、小中学生時代にはツラい経験になりがちだけれど、その時代を乗り越えることができれば、逆に今度は素晴らしい財産にもなると思った。
人それぞれ、いろいろな人生があるけれども、最後には帳尻が合うように出来ているのかとも思う。
「自分の人生は誰かの人生でない。 そして誰かの人生も、自分の人生ではない。」というのは、残酷でもあるし、希望でもある真実だ。
自分自身の本質が何なのかということや、結局のところ何が人生において本当に大事なものだったのかということは、一生涯の時間をかけて俯瞰して眺めないと分からない。
とても長い物語ではあったけれども、主人公の歩があゆんできた半生を詳細に理解するためには、この分量が必要だったのだと思う。
名言
僕の心は、手に負えない感傷で、はち切れそうだった。「寂しい」、という言葉では収まらなかった。
僕の気持ちはあらゆる感情の枠を超えて、どんどん拡散していった。ものすごい勢いで、ものすごい強さで。やがて僕は泣いた。自分自身の感情をどうしていいのか分からなかった。声をあげて泣きたかったが、それでは足りなかった。僕は泣き叫ぶよりも、もっと強い力で泣いていた。涙がぽろぽろと流れ、止まらなかった。顔を覆うことも苦しかったし、うずくまることも苦しかった。僕は腰かけたまま、ナイル河を見つめたまま、ただ泣いていた。自分の非力さに、世界の残酷さに、泣いた。(上巻p.326)
会わない数年の間に、二十代の女性がどれほどの変化を見せるのか、僕には分からなかった。何より相手はあの姉なのだ。どんな珍妙な格好をしているのか、どのような容貌に成り果ててしまったのか、分かったものではなかった。イスラム教徒の女性のような格好をしていても驚かないつもりだったし、万が一、イスラム教徒の男性のような格好をしていても、声に出すまいと、決意していた。(中巻p.252)
僕は、あらゆることから逃げていた。
仕事がなくなってきたのなら、売り込みをするべきだった。それ以前に、自分の技術を磨いたり、積極的な意欲を見せるべきだった。澄江が自分の恋人であるなら、彼女の未来を考える必要があった。彼女は35歳なのだ。もし責任を負えないのであれば、きっぱりと別れを告げるべきだだった。
だが僕は、そのどれからも逃げていた。
自分で動くことが、こんなに困難であるとは、思わなかった。ずっと受け身だった僕にとって、何かを自ら為すことの重さは、背負いきれるものではなかった。(下巻p.61)