旅をする木


旅をする木(星野道夫/文藝春秋)

ものすごく旅情を誘う本だった。
これを読むと、携帯の電波も届かない、何もないアラスカの平原や南米の奥地へ今すぐにでも行ってみたい気分になる。
星野道夫という人は、その体験自体も面白い話しばかりけれど、それを通して感じたことを表現する文章がとても魅力的な人だと思った。
アラスカという、過酷な自然の中で暮らしているからこそ、日本の中で生活していてはわかりにくいことに気づくということもあるだろうけれど、それ以上に、この著者は、物事の本質的なことを直感的に理解して、シンプルな言葉に変えられる感受性を持っているのだろうと思う。
この本を読んだ後は、今のこの時間にも、この場所とはまったく違った風景がアラスカには広がっているということが、実感として感じられるようになった。
巻末の、池澤夏樹氏の解説も素晴らしい。全部で33編のエッセイを集めた短編集のような体裁になっていて、数ページで一つの話しになっているため、読みやすいというところも良かった。
【名言】
きっと情報があふれるような世の中で生きているぼくたちは、そんな世界が存在していることも忘れてしまっているのでしょうね。だからこんな場所に突然放り出されると、一体どうしていいのかうろたえてしまうのかもしれません。けれどもしばらくそこでじっとしていると、情報がきわめて少ない世界がもつ豊かさを少しずつ取り戻してきます。それはひとつの力というか、ぼくたちが忘れてしまっていた想像力のようなものです。(p.37)
南アメリカは本当に遠い世界だったのに、こんなに速く来てしまったことがなかなか納得いきません。身体も気持ちもついてこないのです。旅をするスピード感というのでしょうか。窓ガラスから南アメリカ大陸を初めて見下ろしている興奮とは裏腹に、正直な気持ち、不安さえ感じてしまいます。世界とは、無限の広がりをもった抽象的な言葉だったのに、現実の感覚でとらえられてしまう不安です。地球とか人類という壮大な概念が、有限なものに感じてしまうどうしていいかわからない淋しさに似ています。(p.41)
これはぼくの持論なのですが、旅をしている時、その土地に暮らす人びとの匂いを嗅ぎたいのなら床屋へ行くことです。なぜかと聞かれてもうまく説明出来ませんが、町の人びとと一緒に床屋のいすに座り、髪を切られたりひげをそられたりしてぼんやり過ごしていると、どういうわけかその土地の人間になったような気がしてくるのです。(p.55)
アラスカの自然を旅していると、たとえ出合わなくても、いつもどこかにクマの存在を意識する。今の世の中でそれは何と贅沢なことなのだろう。クマの存在が、人間が忘れている生物としての緊張感を呼び起こしてくれるからだ。もしこの土地からクマが消え、野営の夜、何も怖れずに眠ることができたなら、それは何とつまらぬ自然なのだろう。(p.108)
ルース氷河は、岩、氷、雪、星だけの、無機質な高山の世界である。あらゆる情報の海の中で暮らす日本の子どもたちにとって、それは全く逆の世界。しかし何もないかわりに、そこにはシーンとして宇宙の気配があった。氷河の上で過ごす夜の静けさ、風の冷たさ、星の輝き・・情報が少ないということはある力を秘めている。それは人間に何かを想像する機会を与えてくれるからだ。(p.118)
ぼくがちが毎日を生きている同じ瞬間、もうひとつの時間が、確実に、ゆったりと流れている。日々の暮らしの中で、心の片隅にそのことを意識できるかどうか、それは、天と地の差ほど大きい。(p.123)
昔、電車から夕暮れの町をぼんやり眺めているとき、開けはなたれた家の窓から、夕食の時間なのか、ふっと家族の団欒が目に入ることがあって。そんなとき、窓の明かりが過ぎ去ってゆくまで見つめたものだった。そして胸が締めつけられるような思いがこみ上げてくるのである。あれはいったい何だったのだろう。見知らぬ人々が、ぼくの知らない人生を送っている不思議さだったのかもしれない。同じ時代を生きながら、その人々と決して出会えない悲しさだったのかもしれない。(p.132)
一人だったことは、危険と背中合わせのスリルと、たくさんの人々との出会いを与え続けてくれた。その日その日の決断が、まるで台本のない物語を生きるように新しい出来事を展開させた。それは実に不思議なことでもあった。バスを一台乗り遅れることで、全く違う体験が待っているということ。人生とは、人の出会いとはつきつめればそういうことなのだろうが、旅はその姿をはっきりと見せてくれた。(p.168)
人間の風景の面白さとは、私たちの人生がある一点で同じ土俵に立っているからだろう。一点とは、たった一度の一生をより良く生きたいという願いであり、面白さとは、そこから分かれていく人間の生き方の無限の多様性である。(p.176)
クジラ漁は、リードがすべてである。春、凍りついたベーリング海に、風と潮流の力により少しずつ亀裂が入ってゆく。その氷に囲まれた海をリードと呼ぶのだが、クジラ漁は、そのリードが大き過ぎても小さ過ぎても成り立たない。それどころか、氷は常に動き続け、目の前でリードそのものが消えてしまうことがある。つまり、さまざまな自然条件がうまく重なって、初めてエスキモーのクジラ漁が可能になるのである。それはおそらく、あらゆる狩猟に共通する宿命なのだろう。しかし、狩猟生活が内包する偶然性が人間に培うある種の精神世界がある。それは、人々の生かされているという想いである。クジラにモリを放つときも、森の中でムースに出合ったときも、心の奥底でそんなふうに思えるのではないだろうか。(p.186)
私たちが生きてゆくということは、誰を犠牲にして自分自身が生きのびるのかという、終わりのない日々の選択である。生命体の本質とは、他者を殺して食べることにあるからだ。近代社会の中では見えにくいその約束を、最もストレートに受けとめなければならないのが狩猟民である。約束とは、言いかえれば血の匂いであり、悲しみという言葉に置きかえてもよい。そして、その悲しみの中から生まれたものが古代からの神話なのだろう。(p.187)
二十代のはじめ、親友の山での遭難を通して、人間の一生がいかに短いものなのか、そしてある日突然断ち切られるものなのかをぼくは感じとった。私たちは、カレンダーや時計の針で刻まれた時間に生きているのではなく、もっと漠然として、脆い、それぞれの生命の時間を生きていることを教えてくれた。自分の持ち時間が限られていることを本当に理解した時、それは生きる大きなパワーに転化する可能性を秘めていた。(p.199)
結果が、最初の思惑通りにならなくても、そこで過ごした時間は確実に存在する。そして最後に意味をもつのは、結果ではなく、過ごしてしまった、かけがえのないその時間である。(p.231)