【ネタバレ注意】シン・エヴァンゲリオン劇場版【考察】


みなさんどうもこんにちは。

この記事では、「劇場版シン・エヴァンゲリオン」のネタバレを含む考察をたくさん話していますので、もし、まだこの作品を観ていない、という方は、この先を読むのをいったんやめて、映画を観終わった後に、ぜひまたいらしてください。

2021年3月8日、劇場版エヴァンゲリオンシリーズの完結編が、公開となりました。

今回は、映画を観終わった後の感想や、作品の内容についての考察を話していきたいと思います。

観終わった後の感想

まず、観終わった後の感想ですが、本当に、素晴らしいクオリティーの作品だったと思います。

上映時間2時間35分という長い作品でしたが、途中まったく飽きさせることがなく、これまでのエヴァンゲリオンで出てきた未消化の内容を、この作品の中で解決させていこうという、制作スタッフの意気込みが感じられました。

そして今回、全体的にとてもポジティブな作風だったことも、観終わった後の印象がとても良かった要因でした。

前作の「Q」では、シンジがかなり理不尽に追い詰められていたり、観ていてかなりツラい場面が多かったですが、今作では、その前の「序」「破」にあった流れを引き継ぐ形だったので、優しい雰囲気にあふれていたと感じました。

これまで、エヴァンゲリオンの終わり方というのは、漫画版を除いては、あまりハッピーな形ではありませんでしたが、今回ようやく、みんなが落ち着くべきところに落ち着くという形での締めくくり方を迎えたように見えます。

そして、すべてのキャラが良い方向に進んでいた、と感じられた内容でもありました。

鈴原トウジも、委員長も、14年という年月を経て、親になり、人間的に大きく成長していました。

ミサトは、前作の「Q」では多くを語らず、その行動も立場もよくわからない状態でしたが、今作の内容を通じて、ブンダーの艦長として大きな覚悟と責任を抱えていたこと、シンジと距離をおかざるをえなかったこと、そして、やはりシンジのことを気にかけていたことがわかりました。

そうやって、ひとりひとりのキャラクターに、今回順番にスポットライトが当てられていったので、すべてのキャラのイメージが、良い方向に書き換えられて終わるような作りだったと思います。

それではここから、本編の内容についての考察を話していきたいと思います。

カヲルという独特な存在

渚カヲルというキャラクターは、とても独特な立場の存在で、彼だけがおそらく、旧劇場版の世界と、新劇場版の世界、両方の記憶を持っています。

クローンではありませんが、たとえ死んでも、多元世界の中で転生を繰り返して、また物語の中に再登場するという、狂言回しとしての特殊な役割を持っている人物であると思います。

そんな中で、今回の作品で加持リョウジが発した、謎めいたキーワードである「渚司令」という言葉ですが、一体、何の組織の司令なのか、ということには3通りの解釈が考えられます。

一つは、加持はゼーレとネルフの二重スパイだった、ということから、カヲルはゼーレの司令であった、ということです。
しかし、カヲルと、ゼーレの目指すものが同じはずはなく、これはやや考えにくいパターンです。

もうひとつは、ヴィレの元となった組織である、「海洋生物研究所」の司令である、という可能性です。
加持リョウジは、地球上の種の保存をみずからの使命としていましたが、その点で、カヲルと目指すところが一致して、同じ目的に向かう同志として、活動を共にしていたのかもしれません。

そして、最後の一つは、カヲルはゲンドウと入れ替わり、ある一つの世界線では、ネルフの司令として動いている、という可能性です。
シンジが「カヲルくんは父さんに似ている」と言っていたことから、カヲルとゲンドウにはなんらかの共通項があると考えられます。

そうすると、エンディングで宇部新川駅のホームに立っていたレイとカヲルは、実際にはユイとゲンドウの姿を表していると思われるのです。

加持リョウジの遺志

加持リョウジが今作に登場しなかったのは、既に14年前に、サードインパクトを止めるために、みずからを犠牲にしたからだということが明らかになりました。

その、サードインパクトを止めた具体的な方法については何も語られていませんが、前作の「Q」でセントラルドグマに降りて行った時に、ヘリの破片があったことから、加持は、ヘリに槍をつけて使徒に特攻をかけたと考えられます。

ここは、謎のまま残されている内容ですので、いずれ、外伝として、シンジが眠っていた空白の期間の出来事が描かれる時がくるように思います。

第3村には、加持リョウジとミサトの間に生まれた子どもが暮らしていますが、その名前が、父親と同姓同名の「加持リョウジ」というのはかなり驚きです。

生まれて以降、ミサトは会ってもいないし、子どもに対して親が誰なのかも伝えていない、ということでしたが、それならばなぜ、まったく別の名字や名前にせず、あえて父親と同じ名前にしたのでしょうか。

かつての日本や、現代でも歌舞伎の世界などでは、「襲名」といって同じ名前を別の人間が継ぐことがありますが、そこには、先代がおこなった仕事や使命を継承する意味があります。

ミサトからすれば、この子は、加持リョウジの使命を引き継ぐ存在だという意味を込めて、同じ名前をつけたのかもしれません。

マリが追加された意味

マリは、なぜ新劇場版であらたに追加されたのか、その必要性がいまいちよくわからないキャラクターでした。

それが、今回の作品でようやく、意味を与えられたような気がします。
物語の最後で、シンジが共にあゆんでゆくパートナーとして、レイでもアスカでもない、別の誰かが必要だったのだと思います。

今作のタイトルの最後につけられている(「:||」)記号は、楽譜のリピート記号で、「1度だけ、決められた場所に戻る。ただし、2度目はそのまま次に進む」という意味の記号です。

シンジは、精神世界の中で、アスカに、昔好きだったということを伝えて、その関係にいったん区切りをつけています。
シンジのパートナーがレイやアスカでは、またもう一度過去へと逆戻りすることになり、そのまま永遠に先には進めなくなってしまいます。

シンジが先へと進む未来を選ぶためには、マリという、これまでには存在しなかった、新しいキャラクターが必要だったのです。

映画の中で、マリが冬月から「イスカリオテのマリア」と呼ばれるシーンがあります。

これは冬月が作った造語で、「イスカリオテのユダ」または「マグダラのマリア」という言葉はありますが、「イスカリオテのマリア」はありません。

劇中で、マリが以前に、冬月やユイと同じ研究室にいたことを示す場面が登場しましたが、その当時、マリは研究室の仲間から「マリア」と呼ばれていたのかもしれません。

そして、ユダといえば、キリストを裏切った人物として知られていますが、冬月は、ネルフを離れて、ヴィレへと鞍替えしたマリのことを揶揄して、「イスカリオテのマリア」という二つ名をつけたのだと考えられます。

アスカもまたクローンだった

アスカは、新劇場版から「惣流」ではなく「式波」という名前に変わりましたが、今回明らかになったのは、アスカもまた、レイと同じくクローンだった、ということです。

「惣流」アスカをオリジナルとしてコピーされたのが、「シキナミシリーズ」と呼ばれる、新劇場版のアスカでした。

では、オリジナルの「惣流」アスカはどこにいるかですが、13号機のエントリープラグに入っていたのが、オリジナルの魂だったのだと思われます。

2号機が13号機のコアを突き刺そうとした時に出たATフィールドは、13号機のものではなく、2号機自身が発生させたものでした。

それは、13号機の中に自分自身のオリジナルが存在していることを感知して、それを壊させないようにする、自己防御反応だったのだと思います。

アスカとケンスケの関係ですが、これは、恋愛感情というよりも、保護者と、被保護者の関係に近いように思います。

アスカは、精神的に大人である加持リョウジのことを慕っていましたが、それと似たものを、今のケンスケに対して感じています。

自分自身で何かを育てていくことに意義を感じていた加持の生き様を引き継いだのがケンスケで、第3村での生活の中で、彼の考え方は柔軟になり、たくましく成長をしました。

シンジやアスカやレイを世間の圧力から守り、保護することが、彼らよりも相対的に大人になった自分の役目だととらえているはずです。

マイナス宇宙(裏宇宙)

13号機と初号機が闘う時、マイナス宇宙、または裏宇宙、と呼ばれる領域に入っていきましたが、あれは、現実世界とは異なる舞台を作って、その後におこなわれる、様々な遊びをやりやすくするための、事前の舞台設定だったのだと思います。

同じ場所のことを、「ゴルゴダオブジェクト」とも呼んでいましたが、市街地での戦闘シーンでは、建物やビルが、まるで床に置かれた積み木のように、不自然に倒されていきました。

周りにあるものは、現実そのものではなく、現実に似せたオブジェクトの寄せ集めです。

そこは、通常の世界とは異なった、精神世界の中なので、従来のアニメーションの枠にとらわれず、自由に表現ができるというスイッチを入れることができました。

TV版の最終話で用いられたような、ラフ画のスケッチによる描写もあり、以前と方法は同じものでしたが、技術的には当時よりも遥かに向上しています。

当時は、制作時間がない中で、なんとか間に合わせて完成をさせようとした、苦渋の決断だったはずですが、その時の手法をもう一度改めてやり直したのは、庵野監督なりのリメイクへの挑戦だったのだと思います。

まとめ

と、いうことで、今回は、「劇場版シン・エヴァンゲリオン」を観た後の感想と、考察を語らせていただきました。

もし、考察に対して、ご意見や、違った考え方をお持ちの方がいれば、ぜひ、コメント欄で教えていただければ嬉しいです。

今作のキャッチコピーは「さようなら、全てのエヴァンゲリオン」というもので、そのコピーの通り、過去のエヴァンゲリオンシリーズの作品すべてに対し、けじめをつけようとした内容だったと感じました。

劇中で、「さようならは、また会いましょうのおまじない」という言葉がありましたが、それは、さようならという言葉には前向きな意味がある、ということを示したかったのだと思います。

エヴァンゲリオンという素晴らしい作品に出会えたことに、あらためて感謝します。

今回の記事の動画版

今回の記事の内容をまとめた10分間の動画を作成をしましたので、こちらもあわせてご覧ください。