地下室の手記(光文社/ドストエフスキー)
人との交流を断って、自ら地下室に籠りきりになった一人の男の手記、という形をとった小説。作品は二部構成になっており、前半は、自分自身の心情の述懐、後半は、地下室に籠もるに至った経緯について書かれている。
主人公は、現代で言われるところの「引きこもり」の状態に近く、自分自身でも言っているように、ネガティブなエネルギーの塊だ。ヒーローとしての要件をまったく備えない、アンチヒーローを体現したような存在で、その点、かなりの斬新さがある。そこで語られているものは、思想と呼べるほどのものではなく、自意識があまりに過剰なために湧き上がる妄想で組み立てられた、支離滅裂な妄想がかなりの部分を占めている。
作者がこの小説で試したかったことは、ひたすらに内に閉じこもった一人の人間が、思いくところすべてを心のおもむくままに語り尽くしたとしたらどうなるかという思考実験だったのではないだろうか。そしてやはり思うのは、少しばかり文明が進歩したり、国や時代が変わったとしても、人が考えることというのはあまり大きく変わるものではないということだ。
この安岡治子氏の新訳では、一人称は「俺」になっているが、他の訳では「僕」になっているものもあり、それだけでも随分と印象が違う。この手記の場合、若い青年が書いたものではなく、40歳を過ぎた中年の男が書いていることを考えれば、「僕」よりも「俺」とする新訳のほうが雰囲気に合っている気がする。
【名言】
それはともかくとして、いいかね、俺は確信しているのだが、我々地下室の住人は、くつわを嵌めて拘束しておかなければいけないな。地下室の住人たちは、四十年間黙ったまま地下室に籠りきっていることもできるが、ひとたび外に出たら、それこそ堰を切ったように、喋って、喋って・・とめどがないからだ。(p.75)
とどのつまりは、君たち、なにもしないほうがいいのさ!意識的な無気力のほうがマシだ!だから、地下室、万歳!というわけである。たしかに俺は、正常な人間が、はらわたが煮えくり返るほど羨ましいとは言ったが、今、目にしているようなありさまなら、正常な人間になぞなりたいとは思わないね(とは言うものの、やはり羨ましいことに変わりはない。いや、いや、地下室は、いずれにしてもいちばんなのさ!)。地下室なら少なくとも・・ああ!俺はここでもまた嘘をついているじゃないか!なぜ嘘かと言えば地下室のほうがマシだなどということは決してなくて、なにかもっと全然別のもののほうが良いに決まっているし、それを俺は渇望しているのだが、どうしてもみつけられないということぐらい、自分でも二、二が四と同じくらいよくわかっているからだ。(p.75)
どんな人の思い出の中にも、誰にでも打ち明けるわけにはいかない、親友だけにしか打ち明けられないようなものがある。親友にも打ち明けられない、ただ自身にのみ、それもこっそりとしか明かすことができないものもある。しかしさらに、自身にさえ打ち明けるのが怖ろしい思い出もあるわけで、そうした思い出はどんなまともな人間の中にも、かなりの量が積もり積もっているものだ。いや、それどころか、こんなふうにさえ言えるだろう。その人間がまともであればあるほど、そうした思い出は多いはずだ。(p.78)