死の家の記録

死の家の記録 (新潮文庫)
死の家の記録(ドストエフスキー/新潮社)

シベリアというと、重罪を犯した人の、極めつけの流刑地というイメージがある。
そのシベリアでの獄中記を、ドストエフスキーが書いているというのだから、それだけで興味が湧く。自分自身の手記であるとはまったく言っていないけれど、読んでみると、体験にもとづいてかなり詳細に描写されたノンフィクションであることがわかる。
書かれているテーマは、監獄の中での習慣や出来事、周りの囚人についての解説など、あらゆる場面にわたっていて、ほとんど自分が監獄の中にいるという疑似体験が出来るくらい細かくその様子が伝わってくる。特に、クリスマスの祭りの時や入浴の時など、日常のルーチンと異なる出来事があった時の監獄の様子というのはとても特殊で、その情景の描写はかなり面白い。
監獄の中では金など必要とされないし、あったとしてもほとんど使い道はないのに、それでもみんなが必死になって金を得ようと盗んだりだましたりを繰り返すというところなど、不思議だけれど、そういうものなんだろうなあという気がする。
人は大病、倒産、投獄の経験を経て一人前になるといわれるけれども、確かに、この作品を読むと、刑務所の中というのはこれ以上ない人間観察の舞台であるし、自分自身を深く知るためには最もふさわしい環境であるのだろうと思う。
【名言】
おそろしい苦痛が、獄中生活の十年間にただの一度も、ただの一分も、一人でいることができないことにあろうとは、わたしはぜったい想像できなかったろう。作業に出ればいつも監視され、獄舎に戻れば二百人の仲間がいて、ぜったいに、一度も、一人きりになれない。しかも、わたしが慣れなければならなかったのは、この程度のことではなかった。(p.20)
実際、わが国にはいたるところに、その境遇や条件のいかんを問わず、常にある不思議な人々、温順で、間々ひどく勤勉だが、永久に貧しい下積みから浮かび上がれないように運命によって定められている人々がいるものだ。これからもおそらくあとを絶たないだろう。彼らはいつも素寒貧で、いつもきたない格好をして、いつも何かにうちのめされたようないじけた様子をして、年じゅうだれかにこきつかわれて、洗濯や使い走りなどをやらされている。およそ自分で何かを考えて、自分で何かをはじめるなどということは、彼らにとっては苦労であり、重荷なのである。彼らはどうやら、自分からは何もはじめないで、ただ他人につかえ、他人の意思で暮らし、他人の笛でおどることを条件として、この世に生まれてきたらしい。彼らの使命は、他人から言われたことをすることである。それに、どんな事情も、どんな改革も、彼らを富ませることはできない。彼らはいつの世も貧しい下積みである。わたしの観察では、こういう人間は民衆の中だけではなく、あらゆる社会、階層、党派、新聞雑誌社、会社などにもいるものである。(p.108)
わたしが言いたいのは、どんなりっぱな人間でも習慣によって鈍化されると、野獣におとらぬまでに暴逆になれるものだということである。血と権力は人を酔わせる。粗暴と堕落は成長する。知と情は、ついには、甘美のもっとも異常な現象をも受け入れるようになる。このような権力は誘惑的である。約言すれば、他の人間に対する体刑の権利がある人間にあたえられるということは、社会悪の一つであり、社会がその内部にもつ文明のいっさいの萌芽と、いっさいのこころみを根絶するもっとも強力な手段の一つであり、社会を絶対に避けることのできぬ崩壊へみちびく完全な要因である。(p.366)
自由というものが監獄ではほんとうの自由よりも、つまり実際にある現実の自由よりも、何かもっと自由なもののように思われていた。囚人たちは現実の自由についての観念を誇張して考えていたし、そしてこれは囚人には特有のことで、すこしも不自然ではなかった。きたない服を着た名もない従卒が、監獄では、ただ頭を剃ることもなく、足枷もつけず、警護もつかずに歩きまわっているというだけで、囚人たちの身にひきくらべて、ほとんど王様か、自由な人間の典型のように考えられていたのである。(p.555)