百年の孤独(G.ガルシア=マルケス/新潮社)
この、「百年の孤独」という物語を読んで思ったことは、人間の生き方というのは何でも有りだな、ということだった。
人が想像できる程度のことは、それがどれほど忌まわしかったり、あり得べからざること思っていたとしても、たいていのことは起こり得るし、実際に起こってきたのだろうと思う。そして、起こったことは、起こった以上は結局どれも正しいのだ。
人にとっては百年という年月はあらゆる出来事が何度も繰り返されるに充分な長さだけれども、離れた視点から俯瞰して見ればほんの束の間の出来事だ。
その間に幾世代もの人が生まれ、死んでいき、それぞれに違った個性を持って、それぞれにふさわしい人生を生きていく。
一族の歴史がどれだけ数奇な運命に満ちていたとしても、神の視点からは、それもまた、世界のどこかであった出来事が再び、時を変えて再現されているだけに過ぎないのだろう。
その中で個々がどれほどあがいたとしても、大きな流れの中からは逃れることが出来ないし、どれほどその流れから逸脱してしまったように思えても、常に流れの中に位置している。それは、大きな落胆を感じさせると同時に、大きな救いでもあるのだと思う。
物語の中では、同じ名前が執拗に登場して、似たような出来事が執拗に繰り返される。この、果てしないように思える堂々めぐりには、しかし、きちんと始まりと終わりが用意されている。その百年の間の、ブエンディア一族の姿はやはり「孤独」としか言い表しようがない。
【名言】
アウレリャノ・ブエンディア大佐もまた自分をかこむ孤独の殻を破ろうとして、何時間もそれに爪を立てていた。父親のお供をして氷というものを見たあの遠い日の午後から、彼が自分を幸福だと思ったのは、金の小魚の細工をしているうちに時間がどんどん過ぎていtった、あの仕事場にいるときだけだった。(p.183)
ウルスラの考えでは一家の没落の原因となった四つの災厄である、戦争と闘鶏、性悪な女と途方もない事業にはいっさい縁のない人間、一族の名誉を挽回してくれるはずの有徳の人間を育てられる者は、彼女をおいてなかった。(p.204)
答えながら彼女は、死刑囚の独房にいたアウレリャノ・ブエンディア大佐と同じ返事をしていることに気づいた。たったいま口にしたとおり、時は少しも流れ図、ただ堂々めぐりしているだけであることを知り、身震いした。(p.350)
フランシス・ドレイクがリオアーチャを襲撃したのは、結局、いりくんだ血筋の迷路のなかで彼ら二人がたがいを探りあて、家系を絶やす運命をになった怪物を産むためだったと悟った。マコンドはすでに、怒りくるう暴風のために土埃や瓦礫がつむじを巻く廃墟と化していた。