罪と音楽(小室哲哉/幻冬舎)
先日の逮捕に関連した、拘置所での取調べや裁判の経過などが主題の本と思っていたので、そのつもりで読みはじめたのだけれど、そういう内容は全体の3割ぐらいしかなかった。
「罪と音楽」というタイトルが示すとおり、「罪」の章と「音楽」の章、両方が混在している感じで、多くの部分は、著者自身の音楽論や、最近のJ-POPについての所感が書かれていて、かなり意外だった。そのために、期待していたよりも、ずっと面白い本だった。
自分が中学生の時、小室哲哉氏の音楽だけでなく、彼が書く文章もとても好きだった。当時、本人が雑誌に連載していたエッセイをまとめた「告白は踊る」という本は特に、プライベートな感覚や考え方が日記のようにストレートに出ていて、しかも、独特なアイロニーに彩られていて、とても印象深い文章だった。
この本でも、それと似た雰囲気が流れていて、この一冊の中に、TM NETWORKでのデビュー当時から、逮捕に至るまでの間に起こった出来事について、率直な感想とともに、客観的にまとめられている。
小室哲哉氏が、21世紀以降の音楽シーンについてどういう思いを抱いていたのか、ということがよくわかる内容で、小室氏にしか書けないような、独自の理論にもとづいた専門的な話しも非常に多く出てきている。更に、これからの音楽活動への抱負や、再起に賭ける意気込みが伝わってきて、それがとても嬉しい。
こういう種類の本の場合、実際には本人が書いていないという場合も多いと思うのだけれど、この本の、幼さを感じさせるまでの純粋な熱さは、きっと本人自身が語っている言葉に違いないと思う。
【名言】
手錠をかけられたまま検察庁を出るときも、事務官の方に声をかけてもらった。
「この短時間に天国と地獄を見る小室さんみたいな人は、あまりいませんよ。ほんの短い間ですけど、地獄を見てきてください。僕らは一生天国なんてみられないけど」(p.7)
そもそも、ブレイクする、売れる、有名になる・・どの場合もアンチが急増する。これは世の常だ。だから、アンチの声に耐えられるだけの強さと、それに慣れてしまうだけの鈍感さがないと、人前に出る仕事はできない。(p.15)
一生に一度の拘置所暮らしは、たかが17日、されど17日。生涯忘れられない17日間である。一度も頭の中で音楽が鳴らなかった17日。これだけの音楽的空白は、これまでもなかったし、これから先もないだろう。(p.19)
毎日が締切だった。
その締切に間に合わせるために、僕は限界を超えてまでも猛烈な磁力を発して、高いところにある音楽をむりやり引き寄せていたのだろう。善し悪しの問題ではなく、そうするしかなかったように思う。(p.34)
90年代末になると、世間的には「小室ファミリーvsハロプロ」という捉え方もされ始めた。
小室哲哉vsつんく。
だけど、僕の中では彼をライバル視したことはない。
理由は、つんくさんは歌えるからだ。彼は素晴らしいボーカリストでもある。彼の全才能を10としたら、少なく見積もっても2から3は歌だろう。僕の場合、歌う才能は多く見積もっても0.1あるかないか。そこが全然違う。だから、対抗意識はなかった。
ライバルというより、むしろ共犯だ。
今の僕が「共犯」と言うと、微妙な空気になるので、「両輪」と言ってもいい。
僕の勝手な見解としては、僕ら2人が両輪となり、拍車をかけてしまった現象がある。Jポップの「わかりやすさの追求」だ。
21世紀に入った頃、実は僕自身も驚いていた。ここまで簡単にしなくてはいけないのか?と。(p.80)
そんなわかりやすさを求める風潮に反旗をひるがえしてくれている代表格が、Mr.Childrenではないだろうか。彼らの曲は、聴く人に考える時間を求めてくる。
彼らのような音楽は、誰にでも作れるものではない。誰がやっても成立するものでもない。シンガーとしても類まれな資質、素晴らしい声質、そして技を持っている桜井和寿くんだからできる。彼の声や歌に乗ると、考えさせられる歌詞やメロディであっても、スピード感を失わずに刺さるのだ。うらやましい。(p.83)
僕は、この四半世紀以上、常に「音楽家の小室哲哉」だった。気づけば、ただの「小室哲哉」の部分は痩せ衰えて、自力で立つこともできないほどに脆くなっていたのだ。(p.113)
僕に許された時間は、それほど多くはない。
結果は近未来だ。
1年か半年か、いわゆる「ほとぼりが冷めてから」とはいかない。
しかも、作った曲が流れ始めたら、最初の15秒くらいで、今度はリスナーの審判が下る。
逃げ出したいほど怖いが、これだけの注目と期待の中で音楽を作ることができるなんて音楽家冥利に尽きる。
一生に一度のことだ。
「この歓びを噛み締めたい」といったら不謹慎だろうか。(p.141)