青年団の公演を観てきた。
青年団の舞台は、学生時代から、繰り返し観るたびに必ず新しい衝撃を感じる。
前衛的な部分はまったくない。
あまりにも自然で、それが演劇である感じがほとんどしないということ自体が前衛的と言えるのかもしれないけれども、派手な個性は何一つない。
青年団の舞台では、同時に複数の場所で会話が進行することが頻繁に起こる。
人間の脳には「カクテルパーティー効果」という仕組みがあり、自分から離れた場所の会話であっても、そこに集中をすればその部分の会話だけが聞こえるようになる。それと逆に、集中している会話以外の会話は、まったく意味を把握出来なくなる。
そういうわけで、観ている人が舞台のどのポイントに集中するかによって、舞台の内容自体が、人によってまったく異なってくる。
それは、日常生活ではよくあることではあるけれども、小説や映画の場合、視点をどこかに定めなくてはいけないし、同時にいくつもの会話が並行して進むということはあり得ないので、どこに意識を集中させるか、という観客の自由度は極めて制限されていることになる。
暗転や舞台装置の転換がまったくないことも、特徴の一つだ。
1時間半の公演では、きっちり、舞台の上でも1時間半の時間が経過する。
ある一つのパブリックスペース(今回の「火宅か修羅か」では旅館のロビー)の、特定の時間を切り出して、その場面を観客は透明人間として眺めているような構図になっている。
透明人間、というよりも、その場所に太古の昔から棲みついた精霊としての視点から物語を眺めている、と言ったほうが正確かもしれない。
人は、それぞれ自分の視点からしか人生を見ることが出来ないけれど、同じ場所に腰をすえて、そこで時間の経過と共に起こる出来事を眺めると、まったく違った景色が見えてくる。
例えば自分自身の性格というものは、常に主観的な視点から自分の人生を観じている自分自身からは一貫性があるように見えたとしても、実際には、シチュエーションや、周りにいる人との関係によって常に移り変わる。その、「シチュエーションや関係性によって移り変わる自分」というものを知るには、自分から完全に独立した客観的な観察者が必要だ。
そういう、人外の視点から、人の移ろいゆく様をありのままに見せることによって、本質をあぶりだすというのが、青年団の演出家である平田オリザさんの方法論なんだろうと思う。
この「火宅か修羅か」という話しは、ロールプレイングゲームのように作り手の意図した一本道をなぞっていく作品とはまったく対照的に、観た人と同じ数だけ、別々の物語が生まれる作品だ。
■「火宅か修羅か」
日程:2007年12月21日~2008年1月14日
場所:こまばアゴラ劇場(京王井の頭線「駒場東大前」駅徒歩3分)
http://www.seinendan.org/