代表的日本人(内村鑑三/岩波文庫)
西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の5人について、内村鑑三が書いた伝記的読み物。この本は、新渡戸稲造の「武士道」と同じように、英文で書かれたもので、それが和訳されて逆輸入されたような形になる。
この本が出版されたのは、今からちょうど100年前の1908年。こういう、日本のことを世界に伝える本の需要があったのは、日清戦争、日露戦争が終わった直後で、世界の注目が日本に集まっていた時期だったからだろうと思う。
もし、自分が100年前に生きていて、外国人から「日本というのはどういう国なんだ?」と尋ねられたら、この本をプレゼントしていたかもしれない。
内村鑑三は、「私の貴ぶものは二つのJであります。其一はJesusであります、其他のものはJapanであります。」と語っている。
こういう、西洋と日本、両方の事情に通じ、ナショナリズムとグローバリズムを共に持つ著者でなければ、日本人以外に理解出来る言葉で、日本の文化を正しく説明することは難しかっただろう。
紹介されている5人はいずれも、思想によって世を治めたり、世に影響を与えた人々で、この面々は、キリスト教の信奉者である、内村鑑三らしいセレクションだと思う。いずれも、単なる伝記である以上に、それぞれの人物への著者の愛着が伝わってくる文章であるのがいい。
西郷隆盛については、司馬遼太郎の著書によって、より詳しい人物像が出来上がっていたけれども、それ以外の人々の生い立ちや実績については、この本を読んで初めて知ったことが多かった。
著者は、西洋に劣らぬ偉大な思想家や政治家が日本にもいたということ、文化的な歴史において日本が西洋に引けをとらないということを、繰り返し主張している。読んでいる自分自身が、とても励まされる気分だ。この本を知って、ますます日本という国が好きになった。
【名言】
太閤の偉大さは、思うにナポレオンに似ていました。太閤には、ヨーロッパの太閤に顕著なほら吹きの面が、その小型ながら、かなりあったのです。太閤の偉大さは、天才的な、生まれつきの精神によるもので、偉大をのぞまなくても偉大でありました。しかし、西郷は、そうではありません。西郷の偉大さはクロムウェルに似ていて、ただピューリタニズムがないためにピューリタンといえないにすぎないと思われます。西郷には、純粋の意志力との関係が深く、道徳的な偉大さがあります。それは最高の偉大さであります。(西郷隆盛p.49)
あらゆる人々のなかで、鷹山ほど、欠点も弱点も数え上げることの難しい人物はありません。鷹山自身が、どの鷹山伝の作者にもまして、自分の欠点と弱点とを知っていたからであります。(上杉鷹山p.73)
「キュウリを植えればキュウリとは別のものが収穫できると思うな。人は自分の植えたものを収穫するのである。」(二宮尊徳p.100)
「道と法とは別である。一方を他方とみなすことが多いが、それは誤っている。法は、時により、中国の聖賢によっても変わる。わが国に移されればなおさらである。しかし道は、永遠の始めから生じたものである。徳の名に先立って、道は知られていた。」(中江藤樹p.134)
わが仏僧の場合、なにが権威ある聖典であるかの問題は、キリスト教のルターのように単純ではありません。ドイツ人の方は、ただ一冊の聖書のみに頼ればよかったのでありました。これに対して日本人の方は、ときには矛盾しあう何十もの経典があり、そのなかから、最高の権威ある経典を自分で選ばなければなりません。(日蓮上人p.152)
日蓮の教えの多くは、今日の批評によく堪えるものではないことを認めます。日蓮の論法は粗雑であり、語調全体も異様です。日蓮はたしかに、一方にのみかたよって突出した、バランスを欠く人物でした。だが、もし日蓮から、その誤った知識、生来の気質、時代と環境とがもたらした多くのものを取り去ったとしましょう。そこに残るのは、しんそこ誠実な人間、もっとも正直な人間、日本人のなかで、このうえなく勇敢な人間であります。偽善者なら25年以上も偽善をつづけることはできません。また、そんな偽善者のために生命を投げ出す何千人もの信徒をもつことはできません。(日蓮上人p.174)
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