天切り松 闇がたり


闇の花道(天切り松 闇がたり1巻)(浅田次郎/集英社)

「天切り」というのは、屋根の瓦をはずして侵入する泥棒のことをいうらしい。
この、天切りで名高い盗っ人の松蔵が、留置場で周りのチンピラや看守に向かって、若かりし頃の昔語りをするという設定になっている。
もう70歳を越えた松蔵が思いを馳せて語るのは、古き良き大正浪漫が残る東京下町の出来事で、それを、シェラザードのように一夜に一話ずつ語って聞かせる。
その話しのテーマになっているのは、義賊ともいうべき、松蔵の師匠や兄貴分たちの物語で、いずれも盗みにかけては天下一品の腕利きの、「粋」を絵に描いたような連中で、やたらとカッコいい。
山県有朋や永井荷風のような、歴史上の人物が登場して物語に絡んでくるところも面白い。
語り手である松蔵は生粋の江戸っ子で、その江戸言葉がとにかく歯切れがよくて、テンポが良い。とてもよく出来た講談を、ベテランの講談師から聞かされているような気分になる。この絶妙なリズムを、母国語で味わうことが出来るというのは幸せなことだと思った。
【名言】
無益だって?ふん、いいかい閣下。世の中にゃ銭金より大事なもんが、いくらだってあるんだ。てめえのような長州の芋侍にゃわかるまい。どうりで薄ぼんやりと花火を見てやがると思ったら、ハハッ、どんと上がって消えちまう無益なもんの有難味を、てめえは知らなかったんだねえ。(p.77)
おまえは、わしを長州の芋侍と呼んでくれた。わしにとって、それにまさる誉れはない。一介の武弁で死ぬるは本望じゃ。このような気持ちになれたのも、みなおまえのおかげじゃよ。さあ、去ね。槍は、忘れずに持って行け。(p.95)
まああの一本気てえのァ、形はちがうにせえ根岸の棟梁ゆずりの職人気質さ。人に媚びねえ、へつらわねえ。口数はむっつりと少ねえが、嘘は決してつかねえ。それともうひとつ、シャツの袖口や足袋の裏が、いつもふしぎなぐれえ真白だった。あれァ、男の中の男だ。(p.137)
「住んじゃおりやせんが、盆と正月の炊き出しにァ、一家を上げてめえりやす」
「あの、洒落者がか」
「なにをおっしゃいます、閣下、それが本当の洒落者のすることでござんすよ」(p.148)
「おいら、銭がねえんだけど」
「そんなものは要らない。もし坊さんに尋ねられたら、永井荷風の知り合いだと言いなさい」
「そこ、投げ込み寺なんか」
「そんなことはどうでもいいじゃないか。生まれては苦界、死しては浄閑寺。べつにお女郎ではなくとも、人はみな似たようなものだよ。」(p.264)