禅と日本文化


禅と日本文化(鈴木大拙/岩波書店)

この本はスゴい。禅そのものについて語るのではなく、「武士」「茶道」「俳句」など、日本固有の文化を切り口として、それぞれと禅の関係を語ることによって、禅というものを浮かび上がらせるという、斬新な手法だ。
年を重ねるほどに思うことだけれど、日本が長い年月をかけて熟成してきた文化というのは、本当に素晴らしいものだと思う。どの時代にも、どの文化にも、その背景には必ず、仏教と禅の影響があったということは、言われてみれば当然のことなのだけれど、新しい気づきだった。
現代においてもやはり、禅や仏教の影響というのは、日常生活の中に根強く入り込んでいる気がする。俳句というもの一つとっても、この本を読むと、これは確かに西洋的な分析思考で評論出来るようなものではなく、日本人が培ってきた精神の結晶なのだと思った。
出版されたのは戦前のことなので、現代の日本人読者とは価値観的に相容れないところが多いと思うけれど、自分にとっては、共感するところが非常に多い、相性がいい本だった。著者の意見は、かなり独断的なもの言いが強くて、当時で考えれば危険思想の部類だったかもしれない。
この本は、たとえば漢文や禅の公案を引用するような場合も、それぞれについて懇切丁寧に説明をしているというわけではなく、その内容については読者は既に知っているものとして、いきなり本題に入るような説明の仕方をする。
それでいて、どれも非常に本質的な話しばかりなので、ページ数はそれほど多くないにもかかわらず、内容的にはかなり濃い本だ。どの章も面白く、余計な部分がない。何度も繰り返し読み込む価値が充分にある本だと思う。
【名言】
近代西欧の贅沢品や生活の慰安物がわが国を侵すようになっても、なお、わび道に対するわれわれの憧憬の念には根絶し難いものがある。知的生活の場合でも、観念の豊富化を求めないし、また、派手でもったいぶった思想の配列や哲学体系のたてかたも求めない。神秘的な「自然」の思索に心を安んじて静居し、そして環境全体と同化して、それで満足することの方が、われわれ、少なくともわれわれのうちのある人々にとって、心ゆくまで楽しい事柄なのである。(p.15)
禅匠たちが、いやしくも、芸術に対して感受性をもつ以上は、その鍛錬によってえた根本的の直観は彼らの芸術的の本能を動かすにきまっている。直感は明らかに芸術感情と密接に関連しているからそれによって禅匠たちは美を創造する、すなわち醜や不完全なものを通して完全感を表現する。禅匠のなかには立派な哲学者にはなれなくても、すぐれた芸術家となれる者がしばしばある。(p.24)
和尚は、あらゆる禅匠と同じく、かかる僧に対しては言語的説明の無益なるを知った。言葉の上の詮議は一つの複雑から他の複雑に入って、終わるところを知らぬからである。(p.29)
正宗は人を斬るということに関心を持たなかった。それは切る道具以上のものだった。しかし村正は切るということ以外にでられなかった。(p.66)
朱子は孔子の例にならい、自ら司馬光の大著を簡約して一部の中国史を編纂した。この書において、彼は「名分」という礼節の大原則を宣言し、それをもってあらゆる時代に通ずる政策の指導原理となすべきものと考えた。宇宙は天地の諸法則によって支配され、人事もまたそうである。これらの諸法則はわれわれのすべてに本来自らそなわるところのものを遵守することを要求する。人は「名」を有し、社会において一定の地位を占めるがゆえに、ある「分」を果たすべきである。(p.115)
禅の茶道に通うところは、いつも物事を単純化せんとするところに在る。この不必要なものを除き去ることを、禅は究極実在の直感的把握によって成しとげ、茶は茶室内の喫茶によって典型化せられたものを生活上のものの上に移すことによって成しとげる。(p.121)
日本は近来好戦国として知られてきたが、全然誤りである。自己の性格について持つ意識は、自分たちは、全体としては、穏和な性質の国民だということである。その考えるのも道理である、日本全島をとりまく自然科学的雰囲気は気候上の水蒸気の存在にもとづく。山嶽・村落・森林などは水蒸気につつまれて柔らかな外貌を呈する。花は概して色がけばけばしくなく、やや和らぎを帯びてたおやかである。そして、春の葉ぶりは目にもさわやかである。このような環境に育てあげられた感じやすい心は、誤りなくそこから多くのものを吸収するが、それが心の和となる。(p.126)
仏教がどれほど日本人の歴史と生活のなかに入りこんでいるかを知ろうと思うなら、その最上の方法として、あらゆる寺院とそこに蔵せられている宝物のいっさいが破壊されたと想像することだ。そういう場合、いくら自然の風景と親切に富んだ人民に恵まれても、日本はいかにも荒涼たるところという感じがするであろう。(p.150)
人が「狂気」になったとき、偉大な事が成就されるとしばしば言われる・・という意味は、人間普通の意識層では思想や観念が合理的に組織され、道徳的に統制配置されている。それであるから、ここではわれらはいずれも通常の、常套的の、平々凡々の俗人である。すなわちもとより無害の市民で、合法的に行為する集団の一員であるから、その点では賞賛に値するのである。しかし、かかる魂には創造の性はなく、踏みなれた径をはずそうという衝動もない。(p.160)
俳句は元来直観を反映する表象以外に、思想の表現ということをせぬのである。まずこういうことを知らねばならぬ。これらの表象は詩人が頭で作り上げた修辞的表現ではなくて、直接に元の直観の方向を指すものである、否、実際は直観そのものである。(p.169)
ソーシャルブックシェルフ「リーブル」の読書日記