動的平衡


動的平衡(福岡伸一/木楽舎)

かなり面白い。
前著の、「生物と無生物のあいだ」を読んだ時にも感じたことだけれど、この著者は、テーマ自体とても興味深い内容を選ぶばかりでなく、それを、情緒を含ませて、実に上手な言葉で説明する。
世の中一般で常識とされていることでも、分子生物学の観点からするとまるでナンセンスなことというのがある。
この本では、そういった、各章ごとに異なったテーマを取り上げてひとまとまりとしたものが8章ぶん集まった形になっていて、それぞれ内容は違っているのだけれど、共通したテーマとしては、「生物の驚嘆すべき高度さ」ということになるのだと思う。
タイトルになっている「動的平衡」という言葉は、この本の中で解き明かそうとする「生命の本質」を端的に言い表したもので、ここで出てくる、生命の仕組みの巧みさには驚かされるものが多い。
福岡さんには、生物を専門に研究しているからこそ分かる、生物に対する敬意というものがベースにあるのだと思う。生物の構造というのは、機械のように単純に理解出来るものではないという視点に立っているからこそ、見える世界があるに違いない。
【この本を読んで知った、驚いたこと】
1)肌の質を保つためにコラーゲンが必要というのは正しいことだけれど、コラーゲンが配合されている食べ物を食べたり、化粧品をつけると肌にいいのかというと、それはまったく関係ない。
体内に取り込まれたコラーゲンは、原型をとどめないタンパク質にまで分解された後、再度コラーゲンが生成されることになるので、コラーゲンを取ろうが取るまいが、必要な分のコラーゲンは体内で出来上がる。
2)生物学的な観点から見た、太る仕組み、というのも面白かった。人間はこれまでの700万年間、ほとんどの時代で「飢餓状態」が平常であったので、基本的には常に飢餓に備えた作りになっている。現代のように、カロリーが過剰にある状態に合わせては人間の体はできていない。
3)病原菌やウイルスは、生物の「種」が違うとが伝染しないという「種の壁」がある。生物が同じ種を食べることを本能的に嫌うのは、防御反応として、発病する可能性が高い同じ種を摂取することを避けているため。
【名言】
なぜ、バイオテクノロジーはうまくいかないのか。今日も明日も、メディアには「画期的な」新発見や新発明が報道される。病気の遺伝子の発見、先端的再生医療技術、万能細胞・・。
しかし、それはどこまでも一時のニュースであり、多くの場合、まもなく色褪せたものとなり、次のニュースによって塗り替えられる。なぜだろうか。
それは、端的にいえば、バイオつまり生命現象が、本来的にテクノロジーの対象となり難いものだからである。工学的な操作、産業上の規格、効率よい再現性。そのようなものになじまないものとして、生命があるからだ。(p.23)
一つの厳然たる事実は、私たちの新陳代謝速度が加齢とともに確実に遅くなるということである。つまり体内時計は徐々にゆっくりと回ることになる。
しかし、私たちはずっと同じように生き続けている。そして私たちの内発的な感覚はきわめて主観的なものであるために、自己の体内時計の運針が徐々に遅くなっていることに気がつかない。
タンパク質の代謝回転が遅くなり、その結果、一年の感じ方は徐々に長くなっていく。にもかかわらず、実際の物理的な時間はいつでも同じスピードで過ぎていく。
だから?だからこそ、自分ではまだ一年なんて経っているとは全然思えない、自分としては半年くらいが経過したかなーと思った、その時には、すでにもう実際の一年が過ぎ去ってしまっているのだ。(p.44)
タンパク質の摂取、つまり「消化」とはいったい何を意味するのだろうか。肉や植物に含まれるタンパク質は、食いちぎられ、咀嚼され、消化管に送り込まれる。そこで消化酵素によって分解を受ける。タンパク質はその構成要素であるアミノ酸に分解される。
もし、他の生物のタンパク質がそのまま私たちの身体の内部に取り込まれれば、どうなるだろうか。当然のことながら、他者の情報は、私たち自身の情報と衝突し、干渉し合い、さまざまなトラブルが引き起こされる。アレルギー反応やアトピー、あるいは炎症や拒絶反応とは、すべてそのような生体情報同士のぶつかり合いのことである。
消化とは、腹ごなれがいいように食物を小さく砕くことがその機能の本質では決してなく、情報を解体することに本当の意味がある。(p.67)
新たなタンパク質の合成がある一方で、細胞は自分自身のタンパク質を常に分解して捨て去っている。なぜ合成と分解を同時に行っているのか?この問いはある意味で愚問である。なぜなら、合成と分解との動的な平衡状態が「生きている」ということであり、生命とはそのバランスの上に成り立つ「効果」であるからだ。(p.75)
余剰カロリーを身につけない方法の一つは、余分な運動をすることによって、これを無理やり燃やしてしまうことである。しかし、これはかなりの困難を伴う。一度、体内に入ったカロリーを運動で燃やすためには、想像以上の運動量が必要だからだ。
500キロカロリー(ショートケーキ一個分)を燃焼しつくすのに、水泳なら平泳ぎでみっちり一時間、ジョギングなら10キロメートルは走らないといけない。(p.99)
さまざまな分子、すなわち生命現象を司るミクロなパーツは、ある特定の場所に、特定のタイミングを見計らって作り出される。そこでは新たに作り出されたパーツと、それまでに作り出されていたパーツとの間に相互作用が生まれる。
その相互作用は常に離散と集合を繰り返しつつネットワークを広げていく。この途上、ある場所とあるタイミングで作り出されるはずのパーツが一種類、出現しなければ、どのような事態が起こるだろうか。
生命は、何らかの方法でその欠落をできるだけ埋めようとする。バックアップ機能を働かせ、あるいはバイパスを開く。そして、全体が組み上がってみると、なんら機能不全がない。
つまり、生命とは機械ではない。そこには、機械とはまったく違うダイナミズムがある。生命の持つ柔らかさ、可変性、そして全体としてのバランスを保つ機能、それを、私は「動的な平衡状態」と呼びたいのである。(p.162)
個体は、感覚としては外界と隔てられた実体として存在するように思える。しかし、ミクロのレベルでは、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかないのである。(p.231)
生命は自分の個体を生存させることに関してはエゴイスティックに見えるけれど、すべての生物が必ず死ぬというのは、実に利他的なシステムなのである。これによって致命的な秩序の崩壊が起こる前に、秩序は別の個体に移行し、リセットされる。(p.246)