砂の女


砂の女(安部公房/新潮社)

これはすごい小説だった。
日常とは隔離された、箱庭的な状況での心の揺れ動きを描いているという点で、映画「CUBE」のような、ミニマルな舞台設定のサスペンスという印象を受ける。
物語は、仁木順平という一人の男の視点から描かれていて、それと対になる「砂の女」については、何を考えているのかまったくわからない。けれども、中心となっているのはやはりこの「砂の女」で、この女の言動を詳しく知っていくごとに、男が訪れたのがどんな場所で、どういう環境に男が囚われているのか、ということが徐々にわかってくる仕組みになっている。
そういう構成が実に見事で、非常に特殊な環境と思っていたものが、実は普遍的な人間の心理や、ムラ社会の集団意識につながっているという展開の上手さに、ものすごく驚かされた。
背表紙が銀色なところが、なんか読む気持ちを萎えさせるところがあって、ずっと読まずに本棚に放置していたのだけれど、そのまま手をつけずにいたら、とんでもない名作を見過ごしてしまうところだった。
極端に限定された登場人物とシチュエーションだからこそ行える思考実験というものがあり、それをとことんまで洗練させたのが、この物語なのだと思う。
【名言】
砂のがわに立てば、形あるものは、すべて虚しい。確実なのは、ただ、一切の形を否定する砂の流動だけである。(p.49)
近づきざま、顔の手拭を、ひきはがした。顔は一面むらだらけで、砂に包まれた体とくらべると、不気味なくらい、生々しかった。昨夜ランプの光で、いやに色白に見えたのは、やはり化粧のせいだったらしい。その白いものが、ぼろぼろになって、はげかけている。そのはげかたは、ちょうど卵をつかってない安物のカツレツの感じで、案外その白いものは、本物の小麦粉だったのかもしれない。(p.56)
家に引き返す決心だけは、どうにもつかなかった。女のそばにいるのが、どんなに危険なことか、離れてみるといっそうよく分かる。いや、問題なのは女そのものではなく、うつぶせになった、あの姿勢だろう。あれほどみだらなものは、まだ見たことがない。絶対に引き返してはいけない。なんとしても、あの姿勢は危険すぎる。(p.62)
文明の高さは、皮膚の清潔度に比例しているという。人間に、もしか魂があるとすれば、おそらく皮膚に宿っているにちがいない。(p.136)
(こいつは悲しい片道切符のブルースさ)・・歌いたければ、勝手に歌うがいい。実際に、片道切符をつかまされた人間は、決してそんな歌い方などしないものだ。片道切符しか持っていない人種の、靴の踵は、小石を踏んでもひびくほどちびている。もうこれ以上歩かされるのは沢山だ。歌いたいのは、往復切符のブルースなのだ。片道切符とは、昨日と今日が、今日と明日が、つながりをなくして、ばらばらになってしまった生活だ。そんな、傷だらけの片道切符を、鼻歌まじりにしたりできるのは、いずれがっちり、往復切符をにぎった人間だけにきまっている。だからこそ、帰りの切符の半分を、紛失したり、盗まれたりしないようにと、あんなにやっきになり、株を買ったり、生命保険をかけたり、労働組合と上役に二枚舌をつかったりもするわけだ。(p.180)
結局、なにも始まらなかったし、なにも終わりはしなかった。欲望を満たしたものは、彼ではなくて、まるで彼の肉体を借りた別のもののようでさえある。性はもともと、個々の肉体にではなく、種の管轄に属しているのかもしれない・・役目を終えた個体は、さっさとまた元の席へと戻って行かなければならないのだ。(p.160)
それにしても、動物のすみかというのは、どうしてこう嫌な臭いがするのだろう?・・花のような匂いの動物がいたって、一向に差し支えないと思うのだが・・いや、これは、おれの足の臭いだ・・そう思ってみると、急に親しみがわいてくるのだから、おかしなものだ・・誰だったか、自分の耳垢の味ほどうまいものはない、本場もののチーズ以上だなどと言っていたやつがいたっけ・・それほどではないにしても、腐った虫歯の臭いなどには、たしかにいくら嗅いでも嗅ぎあきないコ惑的なものがある・・(p.199)
なんという暗さだろう・・世界中が、眼を閉じ、耳をふさいでいる・・おれが死にかけているというのに、誰も、振り向いてくれようとさえしないのだ!(p.223)
(百人に一人なんだってね、結局・・)
(なんだって?)
(つまり、日本における精神分裂症患者の数は、百人に一人の率だって言うのさ。)
(それが、一体・・?)
(ところが、盗癖を持った者も、やはり百人に一人らしいんだな・・)
(一体、なんの話なんです?)
(男色が1パーセントなら、女の同性愛も、当然1パーセントだ。それから、放火癖が1パーセント、酒乱の傾向のあるもの1パーセント、精薄1パーセント、色情狂1パーセント、誇大妄想1パーセント、詐欺常習犯1パーセント、不感症1パーセント、テロリスト1パーセント、被害妄想1パーセント・・)
(わけの分からん寝言はやめてほしいな。)
(まあ、落ち着いて聞きなさい。高所恐怖症、先端恐怖症、麻薬中毒、ヒステリー、殺人狂、梅毒、白痴・・各1パーセントとして、合計20パーセント・・この調子で、異常なケースを、あと80例、列挙できれば・・むろん、出来るに決まっているが・・人間は百パーセント、異常だということが、統計的に証明できることになる。)
(なにを下らない!正常という基準がなけりゃ、異常だって成り立ちっこないじゃないか!)(p.239)
「かまいやしないじゃないですか、そんな、他人のことなんか、どうだって!」
男はたじろいだ。まるで、顔がすげかえられたかのような、変わりようだ。どうやら、女をとおしてむき出しになった、部落の顔らしい。それまで部落は、一方的に、刑の執行者のはずだった。あるいは、意志をもたない食肉植物であり、貪欲なイソギンチャクであり、彼はたまたま、それにひっかかった、哀れな犠牲者にすぎなかったはずなのだ。しかし、部落の側から言わせれば、見捨てられているのはむしろ、自分たちの方だということになるのだろう。(p.246)
もっと軽い空気がほしい!せめて、自分の吐いた息がまじっていない、新鮮な空気がほしい!(p.251)
崖の上から、固唾をのんで見守っている連中を、まるで自分のことのように、はっきりと感じることが出来たのだ。彼等は、彼の部分であり、彼等がしたたらせている色のついた唾液は、そのまま彼の欲情でもある。彼のつもりでは、生け贄であるよりも、むしろ代理執行人であるのだった。(p.256)
べつに、あわてて逃げ出したりする必要はないのだ。いま、彼の手のなかの往復切符には、行先も、戻る場所も、本人の自由に書きこめる余白になって空いている。それに、考えてみれば、彼の心は、蒸水装置のことを誰かに話したいという欲望で、はちきれそうになっていた。話すとなれば、ここの部落のもの以上の聞き手は、まずありえまい。今日でなければ、たぶん明日、男は誰かに打ち明けてしまっていることだろう。(p.266)

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