きのね


きのね 上下巻(宮尾登美子/新潮社)

主人公の光乃の、超人的なまでにひたすらな忍従っぷりがすごくて、「おしん」よりもずっと強烈だと思った。その、一人の女性の生まれてから死ぬまでを通して見た一代記ともいうべき長い物語で、自分自身も昭和初期の時代を生きて見ているような気分になる、とても描写が緻密な小説だった。
梨園の特殊な内幕を描いている部分がたくさんあり、その一般世間とはかけ離れた世界がこれほどまでに詳しく表現されているということに驚いた。人間関係の設定など、ほぼ、当時の様子をそのまま再現したノンフィクションなのだという。
十代目市川団十郎という、実在した人物ががモデルになっているということもあって、その点でもとてもリアリティーがあるのだけれど、歌舞伎という芸能についての光と闇の両方をはっきりと描いていて、登場人物の名前は変えてあるとしても、よくここまでスキャンダラスな内容を含んだ小説の連載が認められたものだと感心してしまう。
こういう、日常とはまったく異なる種類の人生というものを追体験出来るというのが小説の醍醐味で、その点、これほどに、小説としての面白さに満ちた作品にはなかなか出会えないと思う。
【名言】
「冗談いっちゃいけませんぜ、白木屋さん。役者の家に生まれた男の子は、いわば貴種ってもんだ。どんなとろい子でも、親父どのからちゃんと芝居の種は引き継いでいなさる。こりゃあ銭金では買えねえれっきとした財産だ。」(上巻p.104)
「役者の芸は、よく磨けばあるところまでは行きつくが、持って生まれた柄ってえのは、どうにもならねえもんだ。坊ちゃんはご面相よし、気色よし、足りねえものはひとつもないよう天から授かっていなさるから、いまや必ず名優といわれるようになる」(上巻p.173)
「お前さんにもそれが判るかい?お客さんに目の極楽、耳の極楽、心の極楽を味わって頂くためには、役者は地獄の苦しみを嘗めて稽古に励まなくちゃならねえ。表は極楽、裏は地獄だ。そのはざまに立ってるおいらたちあ、毎日気を揉むばかりだが、気を揉んであげなくちゃあ、役者の皆さんも立つ瀬がねえってもんだ。」(上巻p.186)
これが嫉妬という感情か、小さいときから大楼の一人娘として育てられ、およそ苦労というものを知らず、長じては名門の、美男の誉れ高い青年俳優の妻となり、実家の強力な後ろ楯もあっておそらく一生しあわせを保証されているひとの、まあ何と可愛いことよ、羨ましいことよ、そして憎らしいことよ、と光乃のまなざしは自分でも知らないうちに小さなほむらと変じてしまったらしい。
自分などいかに善行を積んでも、神はこのひとの百分の一のしあわせも分け与えてはくれぬ、と思うと、あまりの不公平にほむらは燃えさかってくるが、しかしそれは心中深く閉じ込めなねばならぬ感情であった。(上巻p.229)
光乃は頭を殴られたような衝撃を受け、改めて目を据えてみると、寝ている女の子も、圭子が抱いている丈一も、すでに息絶えた亡骸なのであった。ここへ来るまで、死の姿を見ていなければさしての思いもなかったけれど、いまこうして、死の魔神に一人ならず二人まで連れ去られたなまなましい現場に遭遇してみれば、その凄惨の情景はたとえ難く、光乃もとたんに足の力が脱け、その場に坐り込んでしまった。(上巻p.371)
あとから思えば、襲名前から死までの三、四年間の平安と充足は、神が早く召す者に対する最高の贈り物であったかも知れず、そうとは知らぬ人間の愚かしさは、このしあわせが将来にわたって続いてゆくのを疑いもしなかったことをのちのち光乃は悔やむのであった。(下巻p.356)
「どうぞお元気になって、昔のように癇癪を起こして下さい。光乃をぶつなり足蹴にするなり、思いっきりあばれて下さい。光乃は、癇癪を起こすほど元気な旦那さまのほうが好きなのですよ」(下巻p.418)
十年祭の日、何故かその日は意識が鮮明に澄み、さまざまの思いが光乃の脳裏を過ってゆくのであった。
雪雄が生きていれば67歳、どんなに想像しても老いた姿は浮かんで来ず、そう考えていればこれはやはり神の大いなる配慮から、人々の胸に若く美しいままの雪雄を灼きつけて天に召されたのかと思ったりする。(下巻p.444)