ここではないどこかへ

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ここではないどこかへ(鴻上尚史/角川書店)

一冊の中に、書き下ろしのエッセイがあったり、芝居の台本があったり、著者の知人からの寄稿があったりと、色々な内容がごた混ぜになっているのだけれど、特に面白かったのは、鴻上氏本人が書いたエッセイと、巻末に掲載されている、過去に公演した舞台のパンフレット向けに書かれた「挨拶文」だった。
鴻上氏の文章からは、自分自身、学生時代にどれほど影響を受けて、どれだけ多くのことを学ばせてもらったかしれない。本の中に、「一瞬で役者の短所と長所がわかるのが特技」と書いてあったけれど、この人の観察眼には、たしかに、人間の心理の奥底までを照らすような鋭さがあるし、その文章には、コピーライターのように、ほんの数行の言葉なのにいつまでも心に残るようなインパクトがある。
この本の中でも、そういう、印象に残る言葉はあちこちに見つかるし、それらの原点となっているような体験や出来事について語られていることが多く、良い言葉がたくさんあった。
【名言】
僕が二十歳の頃、初老のある人が僕にこんなことを言いました。
「年を重ねていくと、何が自分の本当の財産なのかわかるんだよ。それは、お金でも名誉でもなく、ただ、記憶なんだ。ある人を心底愛したという記憶、素敵な場所に行ったという記憶、素晴らしい体験をしたという記憶、それだけなんだ。」
僕は、二十歳で、その言葉の本当の意味を理解はできませんでした。ただ、年をとるということはそういうことなんだろうと、未来の出来事を傍観するような気持ちでいました。
僕には、振り返る記憶などなく、ただ、これから始まる空白しかないんだと、勝手に決めていたからでもあります。
今、少しはわかる気がします。
それはたぶん、記憶だけが、自分で価値を決められるものだからだろうということです。(p.8)
どんなに急いでいても、母親は、再会のたびに、僕をぎゅっと抱き締めてくれました。これは、自分で言うのも変ですが、とても大切なことなのです。不在の時間が長くても、この「ぎゅっ」があれば、なんとかなるものです。このおかげで、僕は、壊れなくてすんだのです。(p.14)
質問19.どんなことで人を好きになったり、嫌いになったりしますか。
鴻上:生きている以上、みんなそれぞれにヘビーなことを抱えていて、ヘビーなことを語らなきゃいけないわけだけど、その語り口ですごく好きになったり嫌いになったりしますね。自分の感情を客観的に見られたり、自分の感情とうまくつき合おうと思ってヘビーなことをしゃべっている人には、わりとすぐに惚れちゃいます。とにかく吐き出すだけだったり、自分の感情に振り回されていたりするような人を見ると、嫌いになりますね。(p.34)
ミスター・ドーナツとダンキン・ドーナツのドーナツ戦争の中、負けている方が、何故うちは負けているんだろうと、人口の流れ、立地条件、店内の設備などを研究していた時のことです。ある人はポツンと「それはやっぱりあっちの方がおいしいからよ」と言いました。それでも議論は続けられたのです。原因は、人口の流れか、立地条件か、いや住民の質か・・と。
考えてみればあたりまえの話です。
「おいしさ」などという、意味が明確でないくせに、必ず「存在」するものには一つの不安があります。それに自分をかけるのは、かなりの勇気がいるのです。
フランス思想輸入業者は、「意味まみれの人間」などと、口をすっぱくして言いますが、それは、制度的にそう言うことが要求されているからです。
60年代末期のアメリカ中流社会が、カーやクーラーやステレオをそろえ終わった時、次に何をしたかと言うと、子供をたくさんつくりはじめた。つまり、自分で自分に負担をかけた、人生の目的をつくりはじめたというのです。
進歩が実は合理化に過ぎなかったように、経済さえも、この「意味まみれの人間」にあやつられているに過ぎないのに。意味を求めてさまよい、自分を縛ってくれるものを求めてまたさまよう。多くの女性にとってそれは男で、多くの男にとってそれは会社。(p.186)
僕はずっとドアのそばに立って、ホームのザラザラしたコンクリートを見つめていました。僕にとって人生の転機は、いつも驚くほど単純でバカバカしいほど簡単なものでした。今もまた、たって一歩足をだせば、それですむのです。じっとりとした長い時間が過ぎて、ドアが閉まった時、僕をおそった感情は、安堵でも安心でもなく、「据え膳食わぬは男のロマン」という有名な言葉でもなく、たっだホームに降りてしまったもう一人の僕がたどる、もう一つの人生へのいとしさでした。(p.189)
22歳で演出家なんぞになったから、夢を見ながら、夢に裏切られない道を、本気で捜そうと思っただけです。その意味で、僕は、人間に一番、影響を与えるのは、性格でも親の教育でもなくて、ただ、立場だと思っています。(p.256)