歴史を紀行する


歴史を紀行する(司馬遼太郎/文芸春秋)

最高に面白い本だった。
司馬遼太郎氏が、旧佐賀藩、南部藩、薩摩藩など、かつて雄藩があった土地を実際に訪れて、その土地の風土や郷土に特徴的な民俗性について思うところを語るという、素晴らしい企画。
取り上げられている土地も、高知、会津若松、滋賀、佐賀、金沢、京都、鹿児島、岡山、盛岡、三河、萩、大阪、と個性ある場所ばかりで、それぞれの街の成り立ちや個性がよくわかるというだけでも、十分に面白い。
これが書かれた1970年といえば、明治維新から100年ばかりしか経っていない頃で、今よりもずっと、幕末の影響がまだ残されていて、明治維新当時の関係者の孫、くらいの人も地方にはたくさん残っていたにちがいない。
日本史についての知識が半端なく深い著者が、しかも小説という形にしばられることなく、自由に思うままを書き綴っているので、読み物としてとても楽しく、しかも初めて知るような話しばかりで、これほど内容の充実した紀行本はめったにないだろうと思う。
【名言】
土佐人は、水をmiduという。「づ」を発音することができるのである。「づ」と「ず」を区別する。「ぢ」と「じ」を明瞭に発音わけする。新カナづかいになったときに最大の被害をうけたのは高知県の小学生たちであった。かれらにとっては「づ」と「ず」はまったく別なものであるのにそれをすべて「ず」として書かねばならなかった。(高知)(p.14)
珍奇とされた事象としてよくいわれるのは、老人になっても男女とも寺詣りをせずポリネシア人のごとく、狩猟や魚釣りという後生にもっとも障りのある殺生を老人どもが好むことであり、他国人がそれを指摘すると、「この世を楽しめばよい」と、どういう土佐の老人もいう。どういう悲惨なはなしでも、土佐人はそれを因果応報の暗い宗教的教訓に仕立てることはせず、からりとした俗謡にうたいあげて明色化してしまう。(高知)(p.26)
もし秀忠が生涯にただ一度(とおもわれる)浮気をしなかったならば会津松平家は日本史に存在しなかったであろう。その律義者の滑稽な浮気が、幕末、幕府の瓦解期にいたって徳川の親藩がことごとく薩長政権に味方したなかにあってひとり、「徳川家の名誉のために」という旗幟のもとに時勢の激流に抵抗し、流血し、絶望的な戦いをつづけ、ついに悲惨な敗北を遂げるにいたる結果を生む。秀忠は歴史的といっていい浮気をしたことになるだろう。(会津若松)(p.38)
利常と加賀藩は、幕府を安心させるために「軍備をおろそかにしている」という印象をあたえなければならなかった。このため藩をあげて謡曲をならわせ、普請に凝らせ、調度に凝り、美術工芸を奨励し、徹頭徹尾、文化にうつつをぬかした藩であるという印象を世間にあたえようとした(なんと戦後の日本に似ていることであろう)。(金沢)(p.104)
今でも石川県は「真宗王国」といわれ、東本願寺の金城湯池とされているが、とにかくも江戸三百年のあいだ本願寺がその教義をもって加賀人を薫化した。本願寺の教義は本来、人間無力のおしえである。無力なればこそ絶対者である阿弥陀如来-他力本願-の本願にすがり参らせるという教えであるが、この信心を得るためには、自分の精神的体質を、絶対無力の境地にまでひきさげて(あるいはひきあげて)しまわなければならない。(金沢)(p.110)
今の京都府知事の蜷川虎三氏が昭和二十何年だったかに革新勢力の票を得て当選したとき、「京都には知事としてタブーにすべき世界が三つあります」と、半ば冗談めかしくいった。祇園と本願寺と西陣のことである。(京都)(p.129)
治乱興亡八百年を通じ、その時間、空間のなかでこれほどの隆盛さを示している家というのは、世界中をさがしても日本と英国の王家をのぞいては島津氏のほかないであろう。これは島津家がえらいのか、それともその家をこうあらしめた薩摩人がえらいのか、両者一つ機能なのか、いずれにしてもこの歴史的奇蹟をつくりあげたかれらの能力を考えるとき、これだけで薩摩人というのは日本人のなかでも傑作といえるのではあるまいか。(薩摩)(p.144)
歴史のうえをながめてみても、大坂が大阪になる以前、この土地を通過した者は幾百万をこえるだろうが、ここに地政学的価値を発見した者は数人しかいない。その数人はことごとく天才の名を負うている。(大阪)(p.239)
いまでこそ親鸞といえば日本史上の巨人だが、蓮如の少年のころはまったく埋没された名であったにすぎない。親鸞はその存生中、「親鸞ハ一人ノ弟子モモチ候ハズ」と言い、思想として教団を否定しただけでなく、その死後、その教徒は叡山から執拗な迫害をうけつづけたため京の一隅で衰微しきっており、細民を相手に親鸞念仏をとくいわば待ちの説教所のようなものにすぎなかった。つまり本願寺は親鸞によって興ったのではなく親鸞の教団否定の遺訓を無視してこの宗祖の名をかつぎまわった蓮如によって興ったのである。蓮如はその84年の生涯で6、70人の子をうませ、27人成人したといわれるほどの精力家だったが、そのなみはずれた体力で天下を布教してまわり、各国各郡各村に講を組織し、ついにはそれまでにかつてなかった民衆の全国組織を完成した。(大阪)(p.241)