『万引き家族』血のつながりがない他人だからこそ本当に関われることもある


これは本当に、素晴らしい映画だった。

家族とは何か。
どういう集合のことを家族と呼ぶのか。

血がつながっているからこそ、互いの距離を縮めなければいけないという義務が生じて、その結果疎ましくなるということもあるし、その逆に、血のつながりがない他人だからこそ、一緒にいなくてもいいという自由があるからこそ、建前のない本当の関わりが出来るということもある。

家族というのは、同じ家で一緒に生活をするうちに、家族になっていくのだと思う。

下町の片隅で暮らす彼らの生活は、本当の家族以上に理想的な部分があった。

でも、「社会」は彼らを家族とは決して認めてくれない、非社会的な、矯正すべき存在として抹殺しようとする。

そして、自分を守る力を持たない非力な彼らは、あっけなく解体されてしまう。

(※以下、映画のネタバレを含みますので、先に内容を知りたくない方は、映画を見てからお読みください)

兄と妹の関係

りんが祥太の真似をして万引きをしようとしたときの、
駄菓子屋「やまとや」のおじいちゃんの、「妹には、させんなよ」という言葉。
それが、後できいてくる。

兄が妹を守ろうとする動機につながる。
家族がバラバラになってしまうきっかけとなった出来事が、妹を守るためだったというのがせつない。

父と子の関係

祥太は常に、自分と家族とのつながりに自信を持てないでいる。
だからずっと、治のことを「とうちゃん」と呼ぶことが出来ない。

治が、車上荒らしで車内の物を盗んだとき、
「僕もああやって、盗もうとしたときに見つけたの?」と、祥太は尋ねた。

治は、「あれは、お前のときは、お前を助けようとして、やったんだよ」と答える。
この言葉に、祥太はものすごく救われただろう。

と同時に、車上荒らしについては、万引き以上に弁解の余地がない、悪いことであるとも理解できるようになっている。

カップラーメンにコロッケをひたして食べるのが、この二人にとっての「思い出の味」なんだな。
それを、おそらく二人で食べる最後になるであろう食事に食べる。

「こんな食べ方、誰に教わったんだ?」と聞いたとき、きっと彼は「とうちゃん」と言って欲しかったんだろう。
でも祥太は言いにくそうにして、結局何も言わず、その沈黙に耐えられずに治はみずから「・・あ、俺か」と言ってしまう。

結局最後まで、「とうちゃん」と口にはしなかったけれど、でも、心の中ではきっとそう呼んでいたはず。

暗い家と明るい家

この映画の中にはもうひとつの家庭が出てくる。
主人公たちが住む、狭くて薄暗いごちゃごちゃとした家とは違い、明るくて光にあふれる豊かな家。
一見すると幸せそのものの象徴のようなこの家の中に、人には言えない恥が隠されている。

この上なく幸せそうに見えるのに暗い闇を抱える家庭と、
この上なく不幸せそうに見えるのに笑いのある家庭。

その、ポジとネガの対比がくっきりと現れている。

亜紀はなぜ、自分の家に居場所を見つけられず、血のつながっていない祖母と同居したいと思ったのか。

ハツエは譲に聴こえるような独り言で、「血は争えない」と口にした。
推測としては、亜紀の父親である譲もまた、その父と同じように、一人目の奥さんと別れて再婚をしたのではないだろうか。

その連れ子が亜紀であり、再婚相手の義母は、実の子であるさやかを溺愛する一方で、亜紀には冷淡に接していたのだろう。
直接的な加害を受けてはいないにしても、自傷せざるをえないほど、精神的には追い詰められいた。

亜紀は、母親の愛情を求めた結果、愛されて満たされていることの象徴である妹の名前「さやか」を源氏名に選んだ。
それは、家族に対する復讐でもあるような、複雑な心境だと思う。

信代と治の関係

信代が、クリーニングのパートの同僚に「(りんのことを)言いふらしたら、殺すよ」と言った言葉には凄みがあった。
それはたぶん、以前にも一人殺している、ことからの発言だろう。一人も二人も同じなんだから、という、やさぐれた気持ち。

信代の夫を殺して埋めたのは、信代と治の共犯とはいえ、おそらく、実行をしたのは信代のほうで、治はそれにつきあったのだろう。
だから、その恩を返すために、ニ回目の死体遺棄の時は、自分がすべての罪を引き受けることにした。

最後の言葉の意味

バスに乗る前に祥太が言った、「僕、わざとつかまった」という言葉は何だったんだろう。

いろいろな秘密を抱えて、自分の中に罪悪感を抱え続けることが出来なくなって、本心ではつかまることを望んでいたのかもしれない。
でも、つかまった場面を思い返すと、わざとつかまったのではないのは明らかだ。
わざと見つかるように逃げはしたけれど、つかまったのは不慮の事故の結果で、意図的ではない。

その言葉が嘘だとしたら、自分が「捨てられた」ことへの仕返しなのか。
それとも、あえてそのように言うことで、治への未練を断ち切ろうとしたんだろうか。

治は自分を育ててくれたけれど、しかし、学がないゆえにいろいろな失敗を重ねてきた。
そしてその結果として、ついに、大切な妹までが失われて、虐待を重ねる親の元に戻されてしまった。
そういう治を反面教師として、自分は人を守れる強さと知識を身につけようと思ったのかもしれない。

「俺はおじさんに戻るよ」と言った治もまた、このまま祥太と居続けることは叶わないと知っていた。
自分が近くにいてはダメだと。

翔太はもともとが、とても聡明な人間で、勉強ができる環境が与えられれば、逆境を克服できるだけの能力を持っている。

治は、おそらく祥太が自分を振り切って、先に進んでいこうとしていることに気がついただろうと思う。
そしてそのことを、寂しく感じつつも、嬉しく思ったはずだ。
その心情が、祥太の乗るバスを追いかけ、しかしだんだんと引き離されていく、最後の場面に凝縮されている。

本当に、素晴らしい映画だった。