人生のほんとう


人生のほんとう(池田晶子/トランスビュー)

相変わらず、すごい。
響いてくる言葉が、毎ページのようにガンガン飛び込んでくる。
もう、池田晶子氏の本の場合、デフォルトが「すごい」になって、更にどこまで「すごい」を伸ばしていくのか、という、イチローみたいな領域に入ってしまっている。
この本がちょっと他と違うのは、池袋コミュニティ・カレッジで2004~2005年におこなわれた講義をもとに書き起こされているということで、そのために、いくぶん口語っぽくなっているので、言っていることが比較的わかりやすい。
内容的には他の著書とかぶるけれども、池田晶子氏はほんの数個の事柄について言葉を変えて話しているわけだから、それは自然のなりゆきで、この、本によって微妙に変わってくる表現のニュアンスの違いを味わうという、ちょっと変わった楽しみ方になってくる。
【名言】
存在するというのは、宇宙の形式です。無いことが無いのだから、存在するしかない、在るしかない。その宇宙の形式の側から、この何だかんだの森羅万象、宇宙の内容を見てみるという視点は、非常に面白いものです。これを一言で言えば、「絶対不可解」です。そういう壮大な視点をいったん持ってから、もう一度ひっくり返って、地上の某の人生を見てみると、これは完全に違って見えますね。(p.32)
むろん生身ですから、それぞれいろいろな問題、苦しみはあります。けれども、その苦しみすら、そういった視点から、相対化することができなくもない。つまり、生身の苦しみ、しかし苦しんでるのは誰なのだ、と。自分が誰だかわからないというこの謎を押さえておけば、現象としての苦しみの側にあまり引っ張られなくなりますね。(p.34)
どこまでも疑っていくと、「私を私と思っている『これ』」というのは、実は誰でもない、非人称の意識であるということに、必ず気がつくことになります。つまり、私は誰でもない、ノーボディ。裏を返せば「私はすべてである」ということになります。「何ものでもない」の裏返しは、「何ものでもある」、つまり「すべて」ですからね。(p.46)
物語化したい、物語化せざるを得ないというのは、人間の根強い欲望というか習性のようなものですね。意味づけしないで混沌のままほうっておくということが、どういうわけかできない。意味がほしいという、このどうしようもない癖は何なんでしょうね。(p.79)
いわゆる俗流ユング心理学みたいなものは、なぜ自分が自分であるのかという、その謎の側をやっぱり忘れちゃうんですね。亜流というのは必ずそうなるんです。そうすると、人生は自己実現だ、ポジティブシンキングだというふうなハウツー的な考え方が、どうしても出てきてしまう。自分の望むように自分の人生を実現しようということになる。
そういうものは、たいてい自分の魂の声を聞こうというふうに呼びかけますが、この魂の声を聞くのは、たぶん非常に難しいことだと思います。ふつう人が聞いているのは、魂の声と言いながらも、たいていは自我の欲求でしょう。自我の欲求しかはっきりとは聞こえてこないと思います。その声と言われるものが、魂の声なのか自我の声なのかはすごく微妙なところがあって、私はそういうことをしようとすること自体が、すでにエゴの欲求ではないかと思うんですよ。(p.142)
昔から言われていることで、つまり常識なんですが、人間、欲をかいてはだめです。欲望とか願望というものは、それ自体自分にとって悪いものです。これは決して社会道徳の文脈ではなくて、欲望を持つことは、必ず本人にとって苦しいことのはずです。苦しいことはつまり悪いことです。何かを得ようとする心の苦しさ、不幸、あるいは得ようとしたけれども得られなかったという失望、絶望、その苦しさ。ですから、それこそ大昔から言われてきたことですが、自分の欲が自分を不幸にしています。幸福は、現在において充たされてあることでしかないわけで、先々何かがほしいという欲望をもつこと自体で、人は現在に存在しなくなりますから、充たされることができなくなりますね。(p.165)
「リーブル」の読書日記