姑獲鳥の夏(京極夏彦/講談社)
京極夏彦の、百鬼夜行シリーズの第一作目。
このシリーズは、各巻にそれぞれ固有のテーマがあり、「姑獲鳥の夏」では、「憑物落とし」の基本構造を認識させる導入編としての役割もあり、その原理を説明するために、「認識」「記憶」「脳」が主要なテーマになっている。
人間が認識している世界はすべて「脳」を通じて作り上げられていて、「現実」と「仮想現実」の違いは、本人には絶対に区別することが出来ない、という話しから始まり、「空間」と「時間」の意味、物体が持つ「記憶」、など、次々と気になる話しが展開していく。
この作品の一番の魅力は、この、民俗学や量子力学など、まったく異なるジャンルを扱いながら、縦横無尽に行ったりきたりする幅の広さだろうと思う。
それらの事柄について、京極堂が関口に対しておこなう、世間話的な講釈が、いずれ事件の解決に深く関わってくるという、「理論編」「実践編」の二段構えの構造になっているところが、とても面白い。
戦後間もない日本の、未開の風土が残った、昏く妖しい雰囲気と相まって、かなり不思議でぶっ飛んだ、個性的な世界観だけれども、この後に続くシリーズに比べると、この一作目はまだだいぶ常識的で、ページ数が少な目であることから、入りやすい内容になっていると思う。
【名言】
「はっきりしていることは、脳が<税関>の役割を果たしているということだ。目や耳などを通じて外から入ってきた情報の凡てを、脳という税関は確実に検閲している。そして納得の行くものしか通さない。検閲に通ったものだけ意識の舞台に乗ることができる」(p.28)
「仮想現実と現実の区別は自分では絶対つけられないんだよ。関口君。いや、君が関口君である保証すらないのだ。君を取り囲む凡ての世界が幽霊のようにまやかしである可能性はそうでない可能性とまったく同じにあるんだ」(p.32)
「関口君、じゃあ君はダイダラボウシの存在も肯定するね」
「君はいよいよもってどうかしているね。ダイダラボウスといえば昔話に出て来る巨人だろう。そんなもの存在する訳はないじゃないか」
「なぜだい?条件は家康と然程変わらないぜ」(p.36)
「この化け物どもだって、何らかの理由があるからこそこのように形になった残っているんだ。君のいった通り、人口に膾炙したものを採るというなら、化け物程長い間人々の口の端に上ってきた連中はいないだろう。だが君を含めて、現在の人間の常識とこの異形どもはどうも合致しない。記録を見ても、書いてある内容は解るが意味は読み取ることができない。徳川家康ならば比較的常識に合致するから、ある程度正確に読み取ることができる。そこで信用する。我々が信用性を決定するのはその程度の理由さ」
「それじゃあ、記録の客観性や真実性などは絶対ではなく相対的なものだということになるぜ」
「そうさ。歴史教育をまったく受けていない江戸時代の山村の人々には、<家康>より<山姥>のほうが現実感があったはずだよ。<家康>の話をしたってたぶんそんなジジィは知らん、というだろうね」(p.39)
「量子力学の示す結論は、人間を宇宙の一部と見るか、宇宙を人間の一部と見るかの分岐点を示す。思うに極微の世界では内の世界と外の世界の境界が曖昧になっているのだろう」(p.46)
「彼らは残虐非道の鬼になったり、極悪人や豪傑の判を押されたそのときに、遡って過去ができたのだ」
「量子力学みたいじゃないか」
「そうさ。鬼は常に<異常な出産>によって産まれなければならない、そういった強い民俗社会の共通認識が過去にはあった訳だ。」(p.53)
「たとえ心臓が止まっていようと他のほとんどは生きている。心臓はただ血液を循環させる器官に過ぎないんだ。ただまずいことに血液が止まって酸素の供給ができなくなるとまず一番先に脳が死んでしまう。すると体の各器官は複雑な記憶の交換維持ができなくなってしまう。高等生物としてのたがが外れてしまう訳だ。後には下等生物としての器官が残るが、これも相互に依存して生きて行くようにできているから、そのうち徐々に死んで行く。つまり原始的な物質的記憶の活性化そのものが不如意になってしまう訳だ。こうして、霊の集合である命は集合でなくなり、漸くただの物質に還元する。つまり死ぬ訳だ。だから意識の途切れる瞬間というのはあるが、死ぬ瞬間というのはない。人はゆっくりと部分的に死んで行くのだ」(p.112)
「いいか、関口。<主体と客体は完全に分離できない>、つまり完全な第三者というのはあり得ないのだ。君が関与することで、事件もまた変容する。だから、君は善意の第三者では既になくなっているのだ。」(p.122)
この男はいつもそうなのだ。いつだって何もかも知っているような顔をして私の中にずけずけと入ってくる。その実、この男が何を知っているのじゃ私には見当もつかないし、たぶん彼は私のことなど何も知らないのだ。でも、何でも知っているというポーズは、底なしの海の上に浮かぶ板切れの上に踏ん張っているような私の感性には至極魅力的だ。だから私はある時期からこの男に自分の一部を委ねてしまっているのだ。その正否は別にして、この男が私という人間のぼやけた輪郭をある程度明確にしてくれる。不細工でぎこちない、寄せ集めのコミュニケーションしか持てなかった私にとって、それはとても楽な選択だったし、この理屈の固まりの如き無愛想な友人は、彼岸から此岸に無理矢理私を引っ張り戻した責任をそういう形で取っているのだ。(p.220)
「憑物筋というのは民俗社会におけるひとつの装置だ。共同体内に不可解なできごとや不条理なできごとが発生した場合、それを解決する手段として設定されている民俗装置なんだ。鬼の出自が異常出産でなければならなかったように、村内の不幸は憑物筋のせいでなくてはならない訳だ」(p.243)
「呪いはあるぜ。しかも効く。呪いは祝いと同じことでもある。何の意味もない存在自体に意味を持たせ、価値を見出す言葉が呪いだ。プラスにする場合は祝うといい、マイナスにする場合は呪うと言う。呪いは言葉だ。文化だ」
「文化論を聞きたいんじゃない。相手を呪い殺したり、不幸にしたりする所謂<呪い>が有効かどうかが訊きたいんだ」
「少なくとも共通の言葉や文化を持つ集団の中では確実に有効だよ」
「超自然的な力が働くのか?」
「そんな馬鹿馬鹿しい力は働かないよ。呪いはいうなれば<脳に仕掛ける時限爆弾>のようなものだ・・。」(p.288)
「式神といいのは式に人格を与えたときの呼び方です。式というのは、そう葬式だの卒業式だのの式・・いや葬式の式と同じです」
「解からんね。数式というのは一足す一はニという数式かね?」
「そうです。その場合、一という数は即ち存在自体です。例えばここに林檎がひとつあるとしましょう。もうひとつ持ってくるとどうなります?」
「そりゃあ林檎がふたつになるんだろう。一足す一はいつだってニなんだ。それ以外の答はありゃあせん」
「明快ですな。将にその通りです。法則というものは勝手に変えられるものではない。一足す一は必ずニです。しかし一方でそれは林檎を<林檎>という集合で括り、それぞれの個体差を無視して記号化してしまったときのみ有効です。いくら頑張っても自然界には<二つの林檎>というものは存在しない。ひとつの林檎と、もうひとつの林檎があるだけです。個々の林檎は別のものです。つまり、ここでいう<林檎の記号化>が実に<呪術>に他ならない。そして<足す>という概念が<式>であり、<足すこと>が即ち<式を打つ>という行為なのです」(p.306)